今日は久々にピアノに触れた。
実家のリビングに鎮座する、KAWAIの真っ黒なアップライトピアノだ。少し鍵盤が重いことと、鍵盤の返りが遅いことは難点だが音はちゃんとしている。
我が家にはヤマハの電子ピアノもあるのだが、それと比べるとやはり音の情報量が違うような気がする。
なんていうんでしょうね。僕はただピアノを習っていただけの人間であり、音楽の専門家ではないので的確な言葉で表現できないのですが、残響っていうんでしょうか?
鍵盤から指を切った後の音の響き方が異なり、アップライトの方が室内に深く音を残すことができる気がする。
現実として両者それぞれが表現できる音の幅には差があるのだが、その間には心理的にも大きな溝が存在するように感じている。
おそらく電子ピアノの鍵盤が電気的なスイッチに過ぎないというところに限界があるのだ。
どうしても「鍵盤から指を離した=スイッチを切った」という印象が強く残ってしまう。音と自分との間に電子的なスイッチという関門が存在するのだ。
そのため「発音の停止を指示した」というような心理的な区切りがつきやすく、音を発することに対する罪悪感をピアノ側に押し付けることができる。
音を発することに対する責任感を電子ピアノは感じづらいのだ。
対して、紙に鉛筆で書いた文字は消しゴムで消しても完全には消えないように、アップライトで発した音は世界に残り続けている感覚がある。
ペンで紙に文字を書く緊張感と、ワープロで文字を打ち込む緊張感に差があるように、楽器についてもデジタルとアナログの差は存在する。
法律云々の話では無く心理的な障壁として、ゲーム上でパンチ攻撃を繰り出す緊張感と、実際に人にパンチすることのそれとでは雲泥の差があるのだ。
弦が振動を停止する瞬間を生身の人間は観測できないので、音が止む瞬間もまた正確に察知することはできない。
鍵盤から指を離した後にじんわりと残り続ける音がいつ終わるのか。どの瞬間に音としての価値を失うのか。そんなことが気になってしまう。
アップライトの鍵盤を通して発した音は確かに自分の音になるが、それについての責任感のようなものもセットでついてくる。なかなかこれが厄介ではあるが、これぞ音楽の楽しみという気もする。
おそらくここ5年くらい、僕はピアノには触れていなかった。
その間何度か「弾いてみようかな?」と思い立った時もあったが、ピアノから離れた時間が長くなるにつれてその衝動が呼び起される頻度も低くなっていった。
今となっては年に一回ピアノのことを思い出す程度で、毎日ピアノに触れていた10年前とは比較にならない。
ただ実際に鍵盤に触れてみると当時の感覚が呼び起されて、不思議と何かを弾きたい気持ちが沸き上がってくる。
時間が無いのでおそらくまたしばらくは触れることがないであろうが、いつかまたこの場所に戻ってきたいと思える。
そんな魅力がピアノにはある。
corvuscorax