5月18日
昨日の日記はスマートフォンで書いたのだが、それを自分で読み返してたところ非常に読みずらく感じた。というか、正直読んでいられなかった。
内容は一貫してシャワーが壊れた話をしているはずなのだが、僕にはそれらそれぞれが独立した文章に見える。意味のつながりを読みとることは一応出来るが、文としてのリズム感のようなものは失われていて、それぞれの文が唐突に始まり唐突に終わっているような妙な雰囲気がある。
全体を一つの文章として見ることが出来ないキメラのような文章(と言ってもキメラは見たことが無いが。)だった。
もちろんスマートフォンで書いたことだけがすべての原因ではないだろうが、僕としてはやはりそこが一番の原因だろうと考えている。
僕はスマートフォンを筆記具とすることに良さを見出していないのだ。
僕がなぜスマートフォンを嫌うかについて
よく言われるように、スマートフォンは網羅性が低い。特に文を書こうと思ったとき、画面そのものが小さいことに加えて画面が縦長であるという事が大きな障壁となっているように感じる。
スマートフォンで文を書く場合、書いた文章がどんどん小さい画面の上へ流れて行ってしまうから書いている途中で先行の文を見返すことが億劫になってしまう。また、普段通りに長ったらしい文章を書いたとすると改行の数がえらいことになってしまい、そろそろ句読点を打つべきなのではないかと不安になってしまう。
結果的に前後の文のつながりが見えないまま文を書くことになるわけである。すると、前後の文で同じ語尾や構成を使用したことに気が付かなかったり、一文が短くなったりするのだ。
普段なら読点で繋げてしまいそうな2チャンクを2文に分けてしまっていたり、やけに各文の文字数が揃ってしまったりしている。
それをパソコンで表示して読むと明確に違和感が生まれるのである。
またスマートフォンは各操作に用いる動作に大きな差が無く、またすべて指先の小さな動きで完結してしまうことも個人的には問題だ。
文字を入力することと画面を上へスクロールすることはそれぞれに別の名前がついてはいるが、いずれも画面を指でなぞることに過ぎない。またいずれの操作も利き手の指一本で行うため、どの操作を行うとしても動くのは基本的に親指だけだ。
そんなスマートフォンと比べてパソコンは動作が大きく、また多彩である。
キーボードはスマホ入力画面に比べて数倍広い範囲を5本の指を用いて操作する。マウスはクリックやホイールなどの指先の動作に加えて、カーソルの操作のために腕を動かすことになる。
科学的にこれがどう脳に影響してくるのかはよくわからないが、僕はやっぱりパソコンで書くのが好きだ。
スマートフォンで文章を入力するのはパソコンよりも小さい動作で行うことが出来るにも関わらず、一文字入力するのににかかる労力はかえって大きくなってしまっているように思う。(もちろんフリック操作に慣れていないこともあるだろうが)
書くべき言葉を考えるよりも文字入力に労力が割かれてしまって、文字を書くことそれ自体が目的になってしまうように感じる。
今日はいつも通りキーボードにて日記を書いているわけだが、やはり書き心地がいい。
もちろん「そもそも僕はスマートフォンが嫌い(わざわざ”スマートフォン”とフルネームで呼ぶことが多いのはそれが理由)」という前提を考えるとバイアスがかかっている可能性は大いにあるが、それでもまとまった文を書くにはスマホよりもパソコンの方が向いているという事を信じたい。
感想
本日「ファミレスを享受せよ」をプレイした。僕は昔からノベルゲームが結構好きだ。操作が簡単だから。
結構好きな感じだったから感想とか書きたいなと思うけど、どうなんだろう?
僕は昔から何かについて感想を述べることが苦手だ。ここ数週間の日記でちょくちょく書いているが、僕は読み書きがそれなりに好きであるにもかかわらず言葉のことを信用していない。
僕が感じた気持ちの波を感想という形で言葉にした瞬間に誤解が生まれるのが嫌だ。それは他人に対しても、そして自分に対しても。
それでも自分が感じた心の動きを言葉にしてしまいたくなるのはなぜだろう。
言葉は情報共有の手段であり、他人に何かを伝えるために存在する。
それでは自分が感じたことを他人に伝える必要があるかと考えるとそうではないと思っている自分に気が付く。
これは僕の心で発生した僕の中にしか存在できない心の波であり、他人の心でシミュレーションできるものではないのだ。これを他人に伝えようとすることほど不毛なことは無い。
誤解を生みだす言葉へとわざわざ変換しなくてもよい。
僕は割と言葉から影響を受ける方の人間だと思う。
それを思うと自分が生み出した言葉に影響を受けて、自分自身に対して誤解してしまうことが怖くなってくる。
本来対象から受け取った印象が、言葉によって削られていく。そして言葉により歪められた「感想」を読んだ僕は、それこそが自分の心であると信じ込んでしまう。
言葉は心の彫刻刀なのである。
corvuscorax