7月18日
お久しぶりの言い訳
ひと月弱日記を更新していなかったことに後ろめたさを感じ始めたので、いよいよ更新しようと朝っぱらにこれを書いている。
なぜ更新しなかったのかということについては特別な理由が無い。つまりサボっていただけなのだが、ただ一応ちょっとした言い訳は用意してあるので少しだけ文面を割く。というのも、この日記にもたびたび記載しているように、現在引っ越しのただなかである。
引っ越しをするというのは破局的に心身をすり減らすというほどには大変で無いのだが、とはいえ引っ越しをしながら何かをするのはそれなりに体力気力を使うものなのである。インフラ系の解約と新規契約、賃貸の解約、住所変更、車庫証明、転職その他、、、やることは結構多い。僕はそれなりにポンコツな人間であり、こうゆう手続き的な作業にめっぽう弱い。故に引っ越しをしようとなれば、それ以外のものごとに意識を向け手を回すことなど僕には不可能だったということだ。
ただし上記の言い訳は、僕個人の日記観に照らし合わせた場合に言い訳として機能しないのである。
僕は日記とは忙しい時ほど書くべきものだと思っていて、忙しい毎日の中に「日記を書く時間」という溜めを作ることが日記の最大の効用であると感じているのである。つまり「忙しかったから日記書けまへんでしたわ~」というのは「言い訳」ではなく告白にしかならないというわけだ。
今回は流石に間を空けすぎてしまって反省した。今後はもっとマメに更新していこうと思う。(6月のまとめどうしよう……)
節目
なぜ義務教育が小中で分かれているのかが疑問で仕方なかった時期がある。結局ある校舎にいって、クラスと時間割をあてがわれて定められたカリキュラムをこなす事に変わりはない。強いて言えば部活動の有無という差はあるが、なんなら小学校においても委員会に属するのは高学年の児童だけだったりする事を考えるとそんなに決定的な差異では無いよな、と思う。
世の中に色々な節目があるのは何故かと言えば、それはその節目の当事者が祝福なり戒告なりを受け取るためであろう。要するに、世界に対して普段よりも少しだけ存在感を増すことが許されるというようなことなのかもしれない。
もし僕が親になったとしても「卒業だから」とか「誕生日だから」というような節目を意識し、子に対して特別な行動をおこすことができるかと問われたら少し怪しいかもしれない。なぜかと問われれば、そもそも僕自身が卒業とかそうゆうイベントに熱心な方ではなかったということになるわけだが。
子供からしたらそのような節目に特別な何かが欲しいと考えるのだろうか? 卒業式で僕の涙を欲し、誕生日に僕の笑顔を欲するのだろうか?
僕自身のエゴとしては平均的に子供に接したいと思っていたりする。「〜〜だから」という理由で特別に愛を振りまくよりも、普段から何かをしておくべきなのではないか? ただ、それをやろうとするとかなり大変だろうということは想像に容易い。
節目は当事者の為でもあるが、それを祝う関係者の為にも一役買っているというわけだ。その節目さえきっちりこなしていれば、対象に愛を感じ取って貰えるというシステムなのである。そうゆう思いやりの皮をかぶったグロテスクを隠すため、節目は何かと忙しくなるのかもしれない。
corvuscorax