8月4日
ここ数日咳が止まらないというのと、食べる・運動するなどすると耳が遠くなる現象に悩まされている。ただそれ以外は元気であり発熱も無いので、治ったとも言えるような気もする。
つまりコロナを克服したのかどうか非常に微妙なラインであるが、比較的元気寄りの体調を示しているということで、言うならば「判定勝ち」といったところだろうか?
そんな本日の午前から午後にかけて、久々に連絡がきた古い友人に連れられて市内をドライブして回った。(いや、正確に言えば僕が連絡を取ろうとしなかったのだが、現実に長期間互いに個人的な連絡を取り合わなかったことを考慮すれば前述の内容で間違っていないのである。)
なにやら久々の休みに車に乗って出かけたくなったとのことで、友人が運転する友人の車で出かけることとなった。
目的地は特に告げられていなかったのだが、何やら今夜虫取りに行くらしく、その下見に同行することになった。その虫取りにも誘われたのだが、虫系統にはことごとくアレルギーが出ている上に虫嫌いの自分は行きたくなかったので断った。
その後、ラーメンを食べて14時ごろ解散となった。(集合は10時半だったので3時間半の時間を共にしたことになる。)
かなり疲れた。
僕はあまり他人と出かけるのが得意ではなくて、相手が誰であろうと大抵2・3時間で帰りたくなってしまう。
特にあまり趣味の合っていない人間と遊びに行こうとなった場合、これはかなりきつい。例えば、僕自身は服に全くと言っていいほど興味が無いのにもかかわらずアウトレットに行くことになったり、野外が苦手なのに釣りに行くことになったり、人混みが苦手なのに何かしらのイベントに行くことになったりすることがあるわけだ。
他人と出かけて疲れるのはもちろん自分が思うように動けない事が大きなストレスになるからなのであるが、その中でも殊更大きなストレスとなりうるのは「自分がやりたくない事を一緒に出掛けているからという理由でなりゆきに任せて強制されること」である。
以前日記にも書いたことがある「音楽のライブに行くのが苦手」という心情も、おそらくはそれと同じ根を持っているのだろう。その根とは「自分の意志と異なる行動を強いられる現象」であり、僕はそれに弱いのだ。
要するに僕はかなり自己中心的世界の中に生きていて、自分の思い通りにならないことが目の前に現れると尻尾を巻いて逃げたくなってしまうのだということになる。
これについては改善の余地がない対人関係において効果を発揮する心のディスアドバンテージであるから、仮に他人との関りを放棄した世捨て人であろうと努めない限り、つまりはまがりなりにも他人と関わり続ける人間であろうとする為には、この手の不快感に目をつむる必要があるのである。
自分自身が自己中心的視点の持ち主であることを自覚し、もしも他者との関わりの中で生じる不快感の源泉がその視点であった場合は、生じた不快感を無視せねばならない。
少なくとも僕にとって「他人と関わる」とはそうゆうことだ。
corvuscorax