渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

忘れものの幻影を追う毎日を過ごしています

4月27日

 今朝出勤前に立ち寄ったファミマに傘を忘れてきたなぁ。

 そんなことを思いながら午前中を過ごしたのだが、昼休みにロッカーを開けたらそこに傘があった。

 どうやら傘を忘れてなどいなかったらしい。

 というかよくよく思い出してみると、そもそも本日は小雨であった為かそのファミマに傘立ては設置されていなかったので忘れようがないのである。(最悪レジに忘れるとかもありうるが、今回は免れたらしい。)

 

 なぜ傘を忘れたという勘違いをしていたのかといえば、それは勿論日頃の行いが良くないからである。

 僕は常日頃から忘れ物と共に生きているため、脳内で持ち物を確認したときに見つからなかったもの(どこに置いたか定かでないもの)はすべて「どこかに忘れてきたのだ」と推定する癖がついてしまっているのだろう。

 

 まず自分に言っておきたいのは「ボーっと生きてんじゃねぇよ」ということだ。僕は自分の持ち物に対してもっと気を張って生きるべきなのである。

 最悪、傘は多くの人が忘れがちなものであるからまだいい。しかし財布やスマホや家の鍵を忘れるのは、流石に自分でもどうかと思う。

 

 ここまで忘れ物が多いことに一応の言い訳というか、理由らしきものを与えようとすれば一つ思い当たることがある。

 家から出るときの忘れ物限定ではあるが、僕は出かける直前に持っていくバッグを変更することが多いのである。

 玄関まできて「やっぱ今日はリュックの気分じゃないな」となり、ショルダーバッグへ荷物を入れ替えたりしてから出発するみたいなことが多々あるのだ。

 この作業が僕にとって危険であることは間違いない。卵の一件からもわかるように、バッグへ詰め込む対象物が目の前にあったとしても僕がそれを確実に詰め込むとは限らないのである。

 この悪癖を正せば、一つリスクが減ることは間違いない。

 

 しかしながら、それをしたとしても僕自身が忘れ物しがちである事実は確固たるものであり、問題の根っこは解決に至っていない。

 正直なところ、僕はこの点について僕自身を完全に見限っており、この問題の根っこを解決することは僕自身の自助努力では不可能であると思っている。

 意識の外で起きることを意識で弄ることはできないのだから、意識の外側たる他者に何とかしてもらおうと他力本願に生き始めている。

 

corvuscorax

 

また一つ、世界から理想の甘味がなくなった

4月26日

 人によっては明日からゴールデンウィークが始まる。

 僕にはゴールデンウィークが存在しないが、それでも町に漂う雰囲気がなんとなく優しくなったような気がしてくる。

 そんな晴れやかな夜にはコメダに行ってみるのもいいかなと思いたった。

 

コメダ珈琲:小豆小町

 一般にコメダ珈琲の定番と言えば、やたらでかいフードメニューやシロノワールなのかもしれないが、僕がコメダ珈琲で必ず注文するものは別にある。

 「小豆小町 菫」である。

 小豆小町はドリンクに餡子を溶かした甘いドリンクメニューで、他の喫茶店やファミレスではまず味わうことのできない上品な甘みが特徴的なメニューだった。

 葵・桜・菫の三種類がラインナップされており、「菫」は溶媒に牛乳が使用されているものである。(葵はコーヒーと、桜は紅茶との組み合わせ)

 葵・桜も砂糖による甘みとはまた違った甘みを味わうことが出来る独特なものだったが、菫は餡子の甘みをダイレクトに感じる素直な飲み物だったのである。

 コメダへ行ったら小豆小町菫を飲むことが僕のルーティンだった。

 

 そんな僕の耳にその衝撃的なニュースが届いたのは一昨日のことだ。

 友人から「小豆小町? あれなくなってたけど?」とLINEが届いたのである。

 信じられなかった、嘘だと思いたかった。

 

 そして今日、実際にコメダへ来てメニュー表を開くと本当に小豆小町は無くなっていた。

 実は小豆小町はマックの月見バーガー的なポジションの期間限定メニューであり、また来年冬になればメニューに戻ってくるかもしれない。

 一瞬そんな夢想が頭をよぎったが、多分違う。

 失意。

 絶望。

 虚無感。

 なぜ、コメダが僕にこのような試練を課すのかが全く理解できなかった。

 マックのクオーターパウンダーが無くなり、サイゼリヤのフリコが無くなり、近所の星野コーヒーが閉店したかと思えば、次は小豆小町が無くなるときた。

 苦しい……

 

 こうなってしまったら仕方ない、自分で作るか。

 帰り道、スーパーに寄ってこし餡と牛乳を買って帰る。

 さよなら小豆小町。

 君たちが残した奇跡のフレーバーは、僕が守っていくからね。

 

コメダの喫煙所にて

 ここのコメダには喫煙所がある。

 小豆小町ショックによって揺れ動いた心を落ち着けるべく煙草に火をつけた。

 

 ポケットに何か入っていることに気が付いたので照りだしてみるとブドウ味のミンティアだった。

 何の気なしに一粒かみ砕いてみると、いつも通りの人工的なブドウ味が口から鼻まで瞬時に広がった。

 また一息、煙を呼吸する。

 すると意外なことに、ミンティアのブドウ風味と煙草の組み合わせは案外悪くない事に気が付いた。

 煙草の味に飽きてきたらミンティアを嚙みながら吸ってみることをお勧めする。

 

corvuscorax

 

文字が持つパワーは大きくも小さい

4月25日

 暑い。

 典型的な三寒四温の春の天気傾向であるが、こう気温がぶれると体調を崩してしまわないか不安になる。

 暑がりな上に昔から風邪っぴきだった僕はこの時期が最も苦手だ(体調的に)

 暖かさに惑わされて薄着しようものならば、その後に控える肌寒さに駆りとられることになる。

 さらに、花粉症の季節も重なる為に自分が感冒であるかどうかの判断に迷い、対処に遅れが生じやすい。

 困った季節である。

 

駐車場

 今日は夕方、薬局に買い物へ行った。

 支度を済ませ車に乗ろうとしたとき、昨日の雨のおかげだろうか、車が少しきれいになっていることに気が付く。

 少しうれしかった。

 

 それはともかくとして、今借りている駐車場が狭い。

 常識外れに狭いわけではないが、駐車するときに少し緊張するくらいには狭い。

 まぁこの世の駐車場の7割は狭く感じるものなので全く文句は無いのだが、最近ある問題が発生している。

 隣の枠を契約している車が変わったのである。

 

 以前まで(今年2月まで)隣にとまっていた車は軽自動車だったのだが、この3月からはでっかいミニバンが止まっている。

 これは困った。まさかこんなでかい車が隣にくるなんて。

 三重や埼玉の田舎でのびのび運転をしてきた僕にとって、日常的に使用する駐車場がこれほど窮屈だったことは無い。

 

 入出庫のたびに目の前のアパートの外壁と隣のミニバンに挟まれる緊張感を味わう日々を過ごしている。 

 これはまさしく、固定資産のサンドウィッチなのである。

 
説明しようとすること

 駐車場の図示すれば一発で伝わるとは思ったが、ここではしなかった。

 せっかく日記という文字主体の媒体を利用しているのだ。

 多少回りくどくても、文字による表現をあきらめてしまうのはもったいないと考えた。

 

 図示は後からでもできる。

 逆に、文字のみで表現された世界をイメージすることは図示した後ではできない。

 答えを知ったうえで文字から想起されるイメージは、無垢な状態からうみだされるそれとは異なるものになってしまうからだ。

 

 言葉は想像力を働かせるという点で強いが、説明力や厳密さについてはかなり弱いように思う。

 僕は本を読むことがそれなりに好きだし、文を書くことも多分好きだ。

 だからこそ自分自身の表現力の限界は勿論のこと、言葉そのものが持つ説明力の限界を肌で感じておくべきだと思う。(もしくは、自分自身の理解力の限界を。)

 そのために何をすべきかといえば、それは勿論言葉を使用することなのである。

 よく読み、よく書く。

 他者の書いた文から想像される世界の歪みや、自分の世界を表現しようとしたときに立ちはだかる大きな壁を直視するのだ。

 そうして言葉の限界が見えてきたとき、はじめて見える世界があるのだと僕は信じている。

 言葉を知ることは、言葉の外側に広がる世界を知ることなのだ。

 

corvuscorax

 

鳥の健康診断に行ってきた

4月24日

※本日外出中につき、適当ぶっこき日記。fromスマートホン

 

鳥たちの健康診断

 本日は姉に付き添い、飼い鳥たちの健康診断に行ってきた。

 姉は足の自由が効かず運転が難しいため、僕が運転して動物病院まで彼らを運ぶ。

 姉の家まで2時間半・姉の家から病院まで1時間半。それぞれ往復だから都合8時間の運転である。もはや職業だ。

 奴らはやたらと元気であるからそんなに心配無いのだが、健診とは健康だからこそ受けねばならないのだ。病気だとわかっていて受ける健康診断ほど意味のないものは無い。

 加えてナツメさんはメスで、発情期ナウで産卵もしている。それ加えてデブってしまっているものから、先生の助言が必要なのである。

 結果、特に問題なく安心した。よかったね。

 

ダブルココス

 1日に2度もココスに行くなど尋常なれば到底不可能であるが 、本日は昼夜の二度ココスへ来店した。

 1日に2つも包み焼きハンバーグを食べることができるなんて、こんなに嬉しいことはない。

 ドリンクバーも大量に摂取したため、糖尿病の危機が迫る。

 

※携帯を使ってここまで書いた自分を褒めたい。

 

corvuscorax

 

どうせ天気の話ばっかりしちゃうんだったら、少し天気について掘り下げてみようか

4月23日

 天気は霧雨。

 傘をさすかさすまいか、絶妙に迷う天気である。

 気が付けばまた天気の話をしているが、これは仕方のないことだ。天気の話は多様性の現代においても効果を発揮しうる「共通の話題」の最高峰なのだから。

 

 天気と言えば、国際式の天気記号を眺めるのはなかなか面白い。

 僕らが天気について言及しようとするときには、晴・雨・曇・雪・雷・霧がせいぜいであるし、生活上はそれがわかれば十分だ。

 しかし、気象観測となるとそうはいかないらしい。

 

天気の記号を考察する:前半戦

 下に示すのは気象庁のHPに掲載されている国際式の現在天気記号の一覧表である。

現在天気記号(国際式)
右下に行くほど優先度が高まるので、左上が最も優先度が低い。

 上の表には、現在の天気を表記するために00~99までの100記号が用意されている。

 もっとも優先度が低い00は天気不明(観測無)のことを表し、99は雹・霰を伴う強い雷というパニック映画のような天気である。

 00~19は様々な天気が細分されて分類されているため詳細は省くが、01~03がいわゆる晴であり、他にも靄(もや)・煙・黄砂・スコールなどがここに含まれる。これらはきわめて局地的な現象であったり、天気というよりは空の状態異常のような状態だったり、あるいは特記事項無しといった雰囲気だ。

 これらの天気はそれ以下の天気が観測されれば記録に残らない、人間にとって相対的に弱い天気であると言えるわけである。

 

 2の段は過去1時間以内に観測された天気を示す。

 ややこしいところは、それ以下の現在天気の優先順位とこれら過去1時間天気内の優先順位が一致しないところだ。

 と言ってみたが、よくよく見てみると霧の優先順位が上がっているだけで、そのほかの天気は以下の優先順位に沿っていることに気が付く。

 なぜ過去天気において霧の優先度が上がるのかは調べていないのでわからないが、もしかすると海上交通上の有害度が高いからなのかもしれない。

 

 3の段はSと矢印を組み合わせたようなマークが前半に並び、後半は直線と矢印によってデザインされている。

 まず前半の「S」を含む記号たち、これらは砂塵嵐である。

 いわゆる砂嵐がこれに含まれるのだが、別に砂漠でしか発生しないわけではないようだ。

 霧と靄(もや)の違いは視程(見通せる距離)であるが砂塵嵐も視程が関係しており、風によって巻き上げられた砂によって視程が1キロメートル未満になれば砂塵嵐として記録される。そのため砂漠が存在しない日本でも観測されることがあり、2013年には関東地方でも観測された。

 後半の直線と矢印の組み合わせは地吹雪、積雪が強風によって持ち上げられる現象である。

 砂塵嵐と地吹雪は浮遊粒子が砂か雪かという違いでしかないので同じ段に含まれているのではなかろうか。

 ただ、砂嵐と地吹雪が同時に観測された場合は地吹雪を優先して記録することになっていることには注目したい。

 地吹雪は積雪という大気由来の現象が発生している前提があるので、気象としてはそちらが優先ということだろう。

 

 4の段には3本の横線を基調とした記号が並ぶ。これらは霧である。ちなみに靄(もや)は10番の横2本線であり直観的に覚えやすい。

 靄(もや)が視程10キロメートル未満の状態を表すのに対し、霧は1キロメートル未満の状態を指す。

 霧について特筆すべき点は特にないが、発生している高さ(目線の高さ以下・以上の区別と、天空が見通せるかどうかという区分)によって観測結果が変わる点は他天気と一線を画していると言えるだろう。(地吹雪も目線以下か否かで区別される)

 

休憩:近所の喫茶店について

 長くなってきたので一度休憩をはさむことにした。

 と言っても僕は別に笑い話ができるわけではないので、一応日記の体裁を保つために本日の出来事について書くことにした。

 

 本日夕方、少し気分を変えようということで隣駅の駅前にある喫茶店まで足をのばすことにした。

 富澤商店の店舗(先日とは別の駅)があるということなのでついでに買い物でもと思ったが、19時で閉店ということで能わず。おとなしく本屋と喫茶店をはしごすることにした。

 わざわざ電車に乗る面倒を冒してこの喫茶店に来るのにはもちろん理由がある。

 喫煙”席”が現存しているからだ。

 現代において、コーヒーと煙草というエモい組み合わせを楽しむためにはそれなりに行動力が必要になるのである。

 ちなみに実家に最寄っている喫茶店も現状喫煙可能であるためよく行くのだが、時代の流れの中でいつそのハッピースペースが消滅するかと思うと内心穏やかではない。

 喫煙席の需要が特定の喫茶店の売り文句になりうる時間は、あとどれくらい残されているのだろうか。

 そう思うと、なんてことないコーヒーブレイクも得難い体験へと昇華するのである。

 人生を愉しむという事は、事柄をいかに捉えるのかについての勝負なのだ。

 

天気の記号を考察する:後半戦

 では天気記号の続きを考察する。

 上までスクロールするのが面倒くさいので、記号表を再掲する。

現在天気記号(国際式)
右下に行くほど優先度が高まるので、左上が最も優先度が低い。

 

 5の段の巨大コンマは霧雨、6の段の黒丸は雨、7の段の前半は見た目通り雪である。これらは大きく降水として括ることが出来る身近な天気たちである。

 霧雨と雨の違いは雨滴の粒径で、0.5mmが境になる。

 雨と霧雨の段における7・8列目に横倒しにしたSのような記号、相似の記号∽みたいなものがあるが、これは着氷性であることを示す。船や、特に航空機にとって重要な情報であろう。

 また8・9列にはそれぞれ前後の記号が混ざったものがラインナップされているが、これらは見た目通りで5段目のそれは霧雨と雨の混じった天気、6段目の雪と雨が混じったマークもそのまま雨と雪が混じった天気を示しており、これがいわゆる霙(みぞれ)である。

 

 7の段後半には横矢印、横線と記号の組み合わせ、三角点の記号がならんでいるが、一見して何の天気を示しているのかがよくわからないし、内容を見てもピンとは来ないものたちだ。

 ただし、76の横矢印は名前だけならよく見る現象である。

 この記号は細氷:ダイヤモンドダストを表す。空気中の水蒸気が昇華して細かい氷の欠片となり空気中を漂う現象である。

 ダイヤモンドダストの後ろに続く横線の組み合わせ記号と三角点が表す天気は、少なくとも関東地方に住んでいて日常的に見聞きするものではない。

 77の三角横線は霧雪(むせつ)。粒径1mm以下の細かな降雪を指す。

 78の”ばってん横線”は「単独結晶の雪」。雪は普通複数の結晶が固まってできた雪片となって降るが、単結晶で降ることもある。

 77・78は似ているが、霧雪は単結晶とは限らず粒径1mm以下の雪片が降ることを指し、その中でも単結晶のものを「単結晶の雪」として区別しているのである。

 そして単結晶であることの方がレアリティが高いため、観測されればぜひ記録したいという事だろう。

 79は凍雨(とうう)。空中で一度溶けた雪が地表に落ちるまでの間に再度凍結することで生じる。

 地表から上空までの寒気の間に薄い暖気の層(融点以上の気温のもの)が入り込むと生じることがある。地表よりも上空の気温が高く、さらにその暖気層の上に氷晶を生成しうる寒気層が無ければ生じないレア現象である。

 

 8の段のすべてと、9の段の最初にめり込んでいる逆三角形を基調とした記号は「しゅう雨性降水」を表す。

 しゅう雨性降水とはいわゆる強い雨で、対流性の雲(積乱雲)によってもたらされる降水のことを指す。

 逆三角の上に置かれた小記号によって降水粒子が分類されており、黒丸なら”強い雨”、結晶マークなら”強い雪”である。

 後半になると逆三角の上に三角形を重ねた記号がお目見えするが、これらは霰(あられ)と雹(ひょう)である。

 白抜き三角が霰、黒三角が雹。

 表によれば雹の方が優先して記録される天気であるとされているということだ。

 

 最後、91~99までの「乃」みたいな記号は雷電、つまり雷である。

 これらもしゅう雨性降水記号と同様に、付帯する小記号によってその性質を示している。黒丸が付されていれば雨を伴う雷電、雪マークが付されていれば雪を伴う雷電ということである。

 すごくごちゃついている記号だなと思った。

 ちなみに、「乃」記号の右半分にあたる先端が矢印の線は、その折り返し回数によって雷の強度を示す。つまり上の表の中で内側に矢印が向いている記号は折り返し回数が多いため「雷強し」という意味になる。

 「強い雷」とは何かと思ったが、さすがにそこまで調べる体力はなかった。

 大事なのは、雷を伴う天気は記録の優先度が最も高いということなのだ。きっと電気エネルギーによって成り立つ現代社会において、一番の天敵が雷という事なのだろう。

 

終わりに

 この文章は教材ではなく、あくまで僕個人の娯楽としてまとめられたものだ。

 気象庁HPや自宅にある書籍に記載されている内容を、僕というフィルターを通して文字化したものであるため、科学としての厳密さに欠けるという点は一応注意願う。

 天気に興味がある方や正確な情報を詳しく知りたい方は図書館や本屋で気象学の書籍を借りるなり購入するなりして読みこむか、気象研究者に直接問い合わせるのが良いだろう。

 

 ここに書かれていることは、その辺で拾ったメモくらいに捉えてもらうのが妥当だろう。科学にとって大事なのは手続きであり、然るべき方法で獲得した知にこそ意味がある。

 上記の駄文はただの一般人が科学をネタにして自分本位にまとめた文に過ぎず、他人を納得させるに十分な説得力はないのである。

 話のタネくらいにはなるかもしれないが、間違ってもこれを基に既存の体系知に挑もうとしたりしてはいけない。

 

 また、もう一つ今日気が付いたことがある。

 僕は日記更新の時間を決めておらず、日記が書きあがった時点で公開しているのだが、当然文量が多くなればなるほど公開時間が後ろへずれていくのだ。

 つまり読むことに時間のかかる長い日記ほど遅い時間に投稿されるという事である。

 これはあまりよくないな。

 

corvuscorax

 

為せば成ると信じて生きていきたい。

4月22日

 先日の日記に書いた通り、我が家のトイレは本に圧迫されている。

 その現状を憂いた僕は、ここ数日間その問題解決へ向けて行動しているのである。

 ひとまずトイレ文庫への供給過多を解消しようということで、「とりあえず」という理由で一般書や文庫を買購入しトイレへ押し込むことをやめ、代わりに雑誌を供給することにした。

 それに加えて消費ペースを速めるべく、外出時に持ち歩く本をトイレ本棚から選定することにしている。

 これがなかなか効果的で、既に2冊の本を読み終えてトイレから搬出することに成功している。このペースで行けば、次の引っ越しまでには棚を空にすることが出来そうである。

 

トイレのダイエット

 上述のトイレすっきり運動は、要するにダイエットと同じだ。

 本の供給量を減らすことが食事制限にあたり、持ち出して出先で読むことが運動にあたる。

 トイレに積まれた本たちは肥満であり、その肥満は僕の怠惰が作り出したという意味でもよく似ている。

 

 人間が世界に広く進出することが出来たのは太る能力を獲得したからだという説もあるように、肥えることは決して悪いこととは言い切れない。

 しかし文化的生活を営む人間にとっては、やはり健康的であることも大事なのである。

 

 ところで、トイレだけではなく僕自身もダイエットの必要に駆られている。

 運動量は増やしているのだが、なかなか体重は減らない。

 ダイエットに限らず、結果がすぐに見えない作業は総じて中々にきついものであるが、この歯痒さを超えた先に広がる光景は良いものであると信じて日々過ごすしかない。

 

 為さねば成らぬ。

 もちろん為したからには成るというわけでもない。オーキド博士が「そりゃそうじゃ」と言っている通りだ。

 それでも人間は可能性に縋って生きていくしかない。いつだって僕らは何かを信じて生きていきたいのである。

 すぐに結果は見えなくても、きっと筋肉量が増え基礎代謝量は上昇し、徐々に徐々に痩せていくはずである。

 為せば成るのだ。そう信じて生きていこう。

 

※別にそんな大層な話では無い。ダイエットは先例がいくらでもあるように、為せば成る事柄の代表例だ。つべこべ言わず、運動せよ。

 

先日の戦利品

 そういえば先日映画に行ったということを日記に書いたが、その後イオンで少し買い物もしてきた。

 モール内をぶらぶら歩き、ぶらぶら喋りながら歩き回り、出店している専門店を物色した。

 途中電機店に立ち寄った。本当に目的もなく店内をぶらつくだけの存在だったのだが、PC周辺機器のコーナーで足と目が止まり、ついついマイクを購入してしまった。

 現在活用方法を検討中である。

 

corvuscorax

 

友達と映画を観てきた

4月21日

 友達とイオンで映画を見た帰り道、関東地方は雨に見舞われている。先行車の巻き上げる水しぶきは霧のごとく視界を遮り、またその影響か、各地で事故渋滞が発生しているらしい。

 都心を通過することをあきらめて圏央道に乗るが、関越ー中央間は相変わらず路面状況が芳しくなく、唐突な陥没による振動に驚きながら運転する。

 

 視界が悪い中、滑りやすい路面に気を配りながらの運転になる為、雨の日は運転すると疲れがたまる。いつもより多めに休憩するか、もしくは運転しないことが最も好ましい選択だろう。

 帰路の途中、休憩がてらココスへ入り日記を書く。

 

映画

 まず宣言しておくが、普段僕は映画を観ない。「観る」「観ない」両方の意味で特に理由は無い。

 今まで生きてきて映画を見ようと思い立ったことが無かったが、かといってテコでも映画だけは見ないと決意をしているわけでもない。

 映画を定期的にみることは文化的で素敵なことだと思ってはいるのだが、その思いだけでは映画館へ足を向けさせるに十分な理由になっていないということなのだろう。

 

 今日観てきたのはコナンだが、果たして劇場版のコナンは映画なのかという疑問もある。何をもって映画と呼ぶのか、僕はそれを知らない。

 映画館で上映されていればそれは映画なのか?

 映画と名乗っていれば映画?

 2時間の特番といったい何が違うのか?

 映画の基準について勘繰ることがそもそも的外れという説もある。

 映画を楽しむ下地が僕にないのは明らかで、ここからどうすれば映画を観ることが出来るようになるのかは見当もつかない。

 

友達

 今日の友達とは、知り合ってからかれこれ10年以上になる。中学2年生が終わった後の春休みに、イオンで知り合った。今日行ってきたイオンと同じイオンである。

 当初あちらはあまり関わろうとしてくれなかったが、3年次に学校内でしつこく付きまとった。結果なんとなく話をするようになり、同じ高校に進んだことが決定的となって(僕としては)一番親しい友人のポジションにある。

 付きまとうのはいかがなものかという点については考え物だが、結果的に友達になることが出来のでまぁひとまず無罪だろう。(すでに時効という説もある。)

 

 思えば、彼は自分が積極的に友人関係を築こうとした唯一の人間である。

 20数年生きてきたが、僕の友人の中で僕とコミュニティ的共通点が無いのは彼だけだ。(中高は同じ学校だが。それだけだ。)

 今の僕と仲の良い人間と言えば、たとえば部活が同じだったとか、バイト先の仲間だったとか、何かしらの小規模なコミュニティに属する群れの一員として仲良くなった。   

 要するに、否が応でも親しくならざるをえなかった人間たちばかりなのである。(決して彼らのことを嫌っているとか親しくなりたくなどなかったというわけではないのだが、やはり個人的にはそこには隔絶がある。)

 

 当時の僕はよほど彼のことが気に入ったのだろう。理由はよくわからないが、実際面白い人間である。

 

corvuscorax