渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

世間は狭いというけれど、そもそも首都圏が狭いのである

11月9日

 風邪の時に飲むポカリはちょっと苦い。これって僕だけでしょうか?

 7月末の引っ越しの時はコロナに感染してえらいことになったことが思い出される。 

 今回についても引っ越し後にしっかり風邪を引いたわけであるが、幸い水・木と2日間仕事を休んだことにより完全に回復した。

 今回体調を崩した原因はなんとなくわかっている。2週間の研修を終えた先週金曜日のド深夜から土・日と休みなく引っ越し作業をしていたわけで、さすがに疲れがたまっていたということだろう。熱が出たのも一晩だけであったし、2日間寝ていたらすっかり元気になった。

 寝てる間は引っ越し業者について考えていた。僕は今までにサカイしか使ったことが無いのだが、他の業者は一体どんな感じで引っ越ししてくれるのだろうか?

 もしも警察の家宅捜索のように物を運び出してくれる業者がいたらぜひお願いしたいな、おもろいから。

 

久々に都心部

 今日は池袋まで出て人と会ってきた。高校における部活繋がりの者で、こうして定期的に僕を誘い出してくれる稀有な存在である。

 その待ち時間にコーヒーをしばこうとルノアールへ行くと、隣の席に2人の背広を着た男性と私服の若い男性が何やら話をしていた。こうゆう時、会話を聞いてはいけないなと思いつつも、ついつい耳が寄って行ってしまうのが人間というものだ。どうやら背広の男性二人は保険会社の者で、私服の男性にこの場で商品を勧めているらしかった。

 ブレンドとピザサンドを注文して本を開いた。今日持ち出してきた本は筒井康隆の最後の喫煙者である。僕はこの中に収録されている「こぶ天才」が結構好きで、割と何度も読んでいる。

 小一時間ほど読書をし、そろそろ集合時間かと携帯電話を見たら集合時間の10分前であったため店を出る。隣の席ではまだ保険の話をしていた。

 

 ラインを見ると、「遅延である、もうしばし待て」という旨の連絡が届いていた。しばらくは街角の電話ボックスを眺めて待っていたが、しばらくした後に近くの山下本気うどんに入り、とり天ぶっかけうどんの並を注文した。注文して2・3分が経過したところで「着いた」との連絡が入る。「5分ほど待つべし」と返信し、届いたうどんを3分で平らげ、1140円?を支払い店を出た。コシのしっかりした麺を急いで食べたので顎を痛めた。

 その後はその友人と酒を交わす。正直飲酒は久々だ、4ヵ月ぶりくらいかもしれない。新たな仕事の話やほかの友人たちの近況などの情報交換をしつつ、なんやかんや2件ハシゴしてさようならとあいなった。

 

都心から離れる

 その後駅のホームで特急電車を待っていると件の友人とは別の、同郷・同高校卒の友人に出会った。

 世間は思うより狭い。以前新宿や町田においても高校の友人と鉢合わせることがあったことを思い出す。

 地元以外で元同級生に出会うとなんか感慨深いというか、必要以上にいわゆる「運命」を感じたりするものだが、そもそもの話、首都圏は面積として狭いし、その中で交通の節になるエリアはさらに狭い。高校の知り合いなど数十人単位で存在しており、その多くが関東に在住している以上、たまたま同じ日・同じ場所に出かけるということは確立としてそう低くないのである。

 

 そんなことを思いながら特急に乗って終着駅に到着すると、すでに地元のローカル線は終電を終えていた。駅前のプールにタクシーも無かったので、歩いて帰ってみることにした。グーグルマップによると自宅までは大体5キロ弱、別に歩けない距離ではない。マフラーを首に巻いて、明るい駅前から暗い路地へと歩を進めた。

 普段はバイクなり車なりに乗ってばかりの僕ではあるが、こうして歩いてみると潜在的な移動能力が想像以上であることに驚く。一歩の小ささを確認しつつも、着実に目的地に近づいているこの感覚は案外悪くない。登山とかもこれに似た快感があるのだろうか。

 

 ところで、車で空いている夜の道路を走るよりも、寒さに肩をすくめながら暗い歩道を歩く方が夜という感じがする。車で走っていると暗い夜道が怖いということを忘れてしまうが、その恐怖感の源泉は確かにそこに存在するのである。

 こうして自分のパワーというかなんというか、自分自身に対する信頼の程度というか、恐怖感の感じ方の程度のようなものをたまには確かめてみるのも大事なことなのかもしれない。

 正しい恐怖感を忘れたとき、人は慢心を深める。

 

 営業時間を終えたガソリンスタンドを通り過ぎる時、急に真っ暗な場内から滝のような激しい水音が聞こえてビビる。見ると洗車機がひとりでに動いていた。トイレのニオイ防止機能みたいなのが洗車機にもあるのかも知れない。

 ガソリンスタンドを通り過ぎて交差点を2つ抜ければ自宅である。携帯電話を確認すると駅を出発してから大体1時間強経過していた。5キロ弱を1時間強。つまり少なくとも僕の徒歩は時速にして5キロ未満であることが判明した。

 家について風呂に入り、テレビをつけると「運転席からの風景」がやっていたので視る。今日は京浜の貨物線が取り上げられていた。

 相変わらずいい感じの番組である。

 

corvuscorax

 

「風邪気味」が「元気」の一種であった時代は終わったのかもしれない

11月7日

 11月に入ってから早1週間。やけに寒いこの朝、家から出て一番に携帯電話がドブに浸かった。階段を降りるときにポケットから携帯電話が滑り出て、家の脇を走る側溝の、黒いゲル状の泥か何かにズプリと携帯電話がめり込んだ。

 

ハヤシライス

 今日久々にハヤシライスを食べた。というのも、吉野家でカレーをテイクアウトしようと思ったら、なぜか唐揚げ付きの物しかラインナップされていなかったことが関係している。その時の僕は吉野家の大きめの唐揚げを2つ食べきれるほどお腹が空いていなかったので、その隣に表示されていたハヤシライスをとりあえず注文してみたという運びである。

 ハヤシライスなどおそらく給食で出て以来食べていないし、むしろ当時の僕にとっては結構苦手な部類に入るメニューだったと記憶している。10年以上ぶりのハヤシライスは極度に苦手というわけでもなく、かといって美味いとなることも無く、ただ食事としてそこに存在していた。

 どうやら僕は昔から「ハヤシライスはカレーの偽物」という認識を持っているようで、というのも「カレーと思って食べたらハヤシライスだった」という経験が、ハヤシライスを自分の期待を裏切った存在として認識させているようなのである。それゆえに、味覚をつかさどる部分とは異なる領域の脳みそがハヤシライスを受け付けておらず、その経験に基づくハヤシライスのイメージとハヤシライスそのものが持つ味とを分離して捉えることができていなかった。

 ハヤシライスとカレーとの関係と同じように「ブルーベリーはブドウの偽物」「ベーグルはドーナツの偽物」だと思ってた時期が僕にもあった。これらの共通点はカレー・ブドウ・ドーナツはいづれも自身の好物であるという点である。それらの好物に擬態するブルーベリーなどの食べ物を過剰に敵視していた僕は、それらの味とは無関係にその食材を嫌っていた。

 このような話を妻にしたら、「どの食べ物も作っている人がいるんだから、理由はどうあれ『偽物』という表現は良くないでしょ。」と怒られた。ですよね。

 

引っ越し

 この一週間で引越しをして疲れた。今回は引っ越し業者を使わず、自前(実家の)の軽トラを活用して自分で引っ越し作業を進めた。このような状況のために僕は免許をMTで取得したのである。

 曲者だったのは冷蔵庫であった。重心が低いので運びやすくはあるのだが、あまり横倒しにしてはならないし、300L強の冷蔵庫は単純に重量がある。友達の少ない僕には引っ越しを手伝ってもらえる人物を確保できず、毛布などを活用しながら自分で運ぶことになる。

 一番大変だったのは軽トラの荷台に載せるときで、踏み台というか、荷台の高さの半分くらいの高さの台を用意して、その面を経由して何とか積み下ろしすることができた。我ながらそれなりにマッチョなことをしているなと思った。

 こうゆう時にはそれなりに恵まれた体格を与えてくれた遺伝子と生育環境に感謝したくなる。つまりは親に感謝ということで、とりあえず近所のシャトレーゼでちょっとした菓子を買って親に渡してみた。よくわからない顔をしていたが、喜んではいたようである。

 何はともあれ、ようやく新居にて新生活が始まった。

 そして風邪を引いた。病院に行こうと思ったのだが、コロナに加えてインフルやマイコも流行する今はどの病院も風邪症状に敏感なようであった。「風症状での診察には予約が必要です」と3か所の病院から断られてしまい。その時点で通院意欲が潰えて2日仕事を休んだ。

 風邪なんて最もポピュラーな通院理由の一つであると思っていたが、今後はもう風邪で病院にかかるためにはそれなりの手続きを踏まなければならないらしい。まぁ、風邪はそもそも感染症。このくらいの対応をするくらいでちょうどよいのかもしれない。

 いまさらながらそんなことを思った。

 

corvuscorax

 

人には人の起床時間

10月31日

 眠気に抗う夜が続く。

 この2週間は毎日5時起きの生活をしている。そのうち慣れてくるだろうと高を括っていたのだが、現実には僕の身体はそのリズムに全く順応していかなかった。なんやかんやで22時には寝て5時に起きているわけであり、その睡眠時間は少なくとも7時間はあるはずなのだが昼も夜も眠いことこの上ない。

 思ったより体がダメージを受けているのかもしれない。この早起き地獄も明日で終わりであるから、この週末はゆっくりと過ごさせてもらおうと思った。

 

ハロウィン

 今日はハロウィンらしい。

 ここ数年、ハロウィンというのは一体いつのことを指すのかについてよく理解していなかったのだが、今年については研修で周りの人間から大量に菓子を貰ったこともあり「本日はハロウィンなり」と認識するに至った。

 正直なぜ菓子を配るのかについて、その由緒を知るところではないのだが、そんなこと言ったらなぜクリスマスにケーキを食べ、バレンタインにチョコを配るのか、その理由も僕は知らないのである。

 にもかかわらず、それほど違和感なくそれらのイベントを受け入れている自分がいるところを見るに、結局は慣れの問題であるのだろう。いわば僕は(僕の年代は)クリスマス・バレンタインネイティブではあるが、ハロウィンネイティブではないということで、結局僕にとってハロウィンは今後しばらくは異物であり続けるのかもしれない。

 

交通事故

 最近毎日のように交通事故を目撃する。

 まがりなりにも首都圏と呼ばれる地域であるだけに国道にはそれなりの交通量があるもので、片道2時間も走るとなるとすれ違い、追い越し追い越される車の台数はかなりの数になる。そして埼玉県では、7分に1度は何かしらの事故が起きているのであって、それらに毎日のように出くわすことは何ら不思議なことではないのである。

 それにしても、片側2車線のバイパス道路で右車線に停止している右折車を避けようとした車と左車線を直進してきたトレーラーとの接触事故(幸い追突にはならなかった)、高架のバイパス道路で合流する車に道を譲ろうとした車に後方から車が追突、片側3車線から2車線へ減少する箇所で発生した渋滞の最後尾へトレーラーが追突、信号待ちの車列の間から飛び出してしまった自転車の中学生とその信号を左折してきた車との衝突事故。エトセトラエトセトラ。

 こんなにも事故が多いのかと正直面食らった。

 自分はうっかり者であるからして、おそらく他人よりも事故を起こしやすいのではないかと思っている。そしてこう毎日のように事故を目撃すると「うわー……」と少し落ち込むとともに、なんとなく自分自身の運転にも自信が無くなってくるのである。

 事故を目撃するたびに「明日は我が身」という思いが頭から離れなくなって、必要以上に運転に対して緊張してしまう。適度な緊張感は勿論必要だが、過度に緊張して身体が硬くなってしまったり、緊張のあまり、逆に注意力が散漫になってしまったりしてもよくない。こうゆう時は一度コンビニなどに寄って心を落ち着けることが肝要である。

 

corvuscorax

 

キーボードのエンターキーがネバついて困ってます

10月28日

 

 今月の21日からは、自宅から車で2時間弱走ったところにある施設で2週間の研修が行われており、今週はその二週目である。

 僕の住んでいる地域は、派手に暮らそうと思わなければそれなりに過ごせるくらいに様々なサービスが整ってはいるが、いかんせん山奥であるから、県レベルのイベントがあった際には山越えをして平地まで出ていかなければならない。

 不便を楽しもうというスタンスは嫌いではないが、それはそれとして不便であることがどうしようも無く憎くなる時もある。

 例えば今回のように、2週間の早朝5時起き生活が必要になったりすると土地を呪いたくなる時もあるのだ。

 てか、オンラインじゃダメなのか? この研修は。

 

小惑星アポフィスが接近

 先週のラジオでこんなニュースが放送されていたことを思い出す。曰く数年後に、地球の至近を300mほどの小惑星が通過するらしい。JAXAとESAはこの小惑星を実験の好機ととらえ、惑星防衛技術確立のための実験をしようとしているのだとか。小惑星の軌道をずらして通過コースを変えようということらしい。

 そんなことまでできるのか、人間には。自分のしょうも無さをよく知っており、また一応人間であると自覚している僕は、このような人間のすごさに対してフィクションなのではないかと感じてしまう。

 財布を忘れてポテトをキャンセルする人間がいる一方で、遥か遠方の小さな岩塊の動きを正確に捉え、地球を防衛しようと奔走する人間もいる。多様なこの世界には、そうゆう不均衡がある。

 

キーボードがネバついて仕方がない

 最近キーボードがネバついて困っている。

 おそらくは先々週くらいにこぼした味噌汁か何かが悪さをしているのだろうが、結局掃除などせずに今日に至るわけである。味噌汁をこぼしたことも正直よく覚えておらず、ご飯を食べようとごはんやみそ汁等を机に持ってきたのだが、気が付いたらキーボードが味噌汁まみれになっていた。

 おそらく自分がこぼしたのだろうが、どのような経緯でいつこぼしたのかは定かではない。さてご飯を食べようと箸を持ち、YouTubeでも見ようかとパソコンを弄った時に初めてエンターキー周辺をミソスープの洪水が襲っていることに気が付いたのである。

 

 しばらくは使用に耐えていたこのキーボードであるが、いよいよエンターキー周りの押し心地が渋り始め、この「へこっ」とした感触がなんとなく嫌になったので新しいキーボードを購入した。

 押し心地は良好である。

 

仕事と性格の悩み

 仕事上の悩みというのは誰しもが持っているであろう普遍的な現象である。

 そして、きわめて一般的な人間であるところの僕もその例にもれず、仕事上の悩みというものを生意気にも持ってみたりするのであった。

 

 僕の新しい仕事は分野でいえば「教育」に属する分野であり、今後は他人に物事を伝えることを生業として生きていくことになるわけである。

 しかし、これについて僕は重大な欠陥を持っているのではないかと最近感じつつあるのであり、それはつまり僕の言葉が軽薄であるということを僕は案じているのである。

 僕は考えてから言葉が出てくるタイプではなく、どちらかというと反射的に発話するタイプである。これはつまり、何かしらの質問を受けたときにしっかりとした思案を挟まずに、表層に浮いている知識でもって返答をしてしまうということであり、これは教える側の人間としては致命的ともいえる性質なのではないかと思い始めているのである。

 

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夜の肌寒さに、ようやく夏の衰えを感じ取る。

10月20日

珍プレー マクドナルド編

 これは先ほどの話だが、マクドナルドのドライブスルーでポテトを二つ注文したところ、財布が無くて支払いができなかった。かろうじてキーケースに400円が入っていたので、土壇場でポテトを一つキャンセルし、何とか支払いをを終えた。

 その後、ポテトの入った暖かい紙袋を助手席の座面に置いたのだが、するとどうだ、助手席に財布が置いてあるではないか。

 つまり、その場に存在する財布を「無い」と勘違いして、「すみません!!!!財布忘れまして、ポテト一つキャンセルでお願いします!!!ほんとすみません!!」と支払い口で騒ぎ立てたわけである。

 とんだお騒がせものである。マクドナルドにはご迷惑をおかけして、本当に申し訳ない。

 

 ところで、このエピソードはいかに僕が自分自身を信頼していないかを端的に示す、良い自己紹介といえるだろう。

 きっと、「自分はきっちりしている人間である」と自負しているならば、「自分が財布を忘れるはずがない」と、身の回りをよく検索してから「財布を忘れた」という事実を受け止めるであろう。一方僕の場合、パッと見で財布が見当たらなかったら「ああ、これは忘れたな」と何の抵抗もなく決定しているのである。

 これは自分自身への諦めが一定の閾値を超えていることの証明といえる。

 
この夜の空気感

 今日はジムに行けなかったため、代わりに少しでも運動しようということで、家に帰ってから散歩に出てみた。

 ひんやりとしていて少し肌が張り詰める。そんなちょっぴり痛みに似た感覚を覚えるくらいには冷たい空気の中、徒歩20分くらいのところのコンビニまで出かける。調べてみれば、気温は12度。昨日30℃近くまで上がったことを考えれば、冬に向けて大躍進といえるのかもしれない。

 今日もスムージーを飲む僕は、スムージーの意味を知らない。

 

corvuscorax

深夜

10月18日

 先月からすっかり昼型の生活になってしまった僕であるが、いまだにしっかり深夜のファミレスが好きだ。

 といっても、近所に深夜営業のファミレスが無いのでなかなか行く機会は無く、もし深夜のファミレスに行こうと思ったならば、車で1時間弱走った街のココスへ行くしかない。

 かといって、町田に住んでいた時に深夜のファミレスに行っていたかと問われれば案外そんなことはなく、せいぜい月に1度行っていたかどうかくらいの頻度だった。別に深夜営業のファミレスが近くにあるからといって、そこに行くとは限らないのである。

 

 ところで僕の言う深夜とは、どうやら日を跨いでからの時間のことをそう認識しているようであり、12時まで営業している店舗を深夜営業と表現することに違和感を覚えている。

 もちろん「深夜営業」という言葉については各企業や法律上の基準があり、辞書的な意味としては明確なのだろうが、感覚的にはどうも腑に落ちない。食感を表す表現である「ほくほく」について、ここ20年間納得がいっていないことと似た違和感である。

 僕にとって深夜とは何かといえば、それは多くの人間が活動しえない時間帯に活動する自分が、同じくそのような時間に活動している人間に対して一方的な仲間意識を持つことができる時間であり、何らかの理由でいわゆる普通の生活をしてない人々の存在を肌で感じ、また自分自身をその特別感の漬物にするための時間なのである。

 僕にとっては、その時間に自分が覚醒していることが大事なのではなく、昼間と比べて圧倒的に狭いコミュニティに自分自身の身を置く快感を味わいたいのであり、故に「深夜の大都会でバカ騒ぎ」というよりは、「郊外のファミレスでひっそりと」の方がスローガンとしてはしっくりくる。

 

 

 最近セブンイレブンのスムージーをよく飲んでいて、4種類あるうちのグリーンスムージーをよく購入している。

 スムージーについてよくわかっていない。いろいろな具材をミキサーにかけたものであるというくらいの認識であるが、そもそもスムージーが何語で、どんな意味なのかは知らない。

 

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ドライブは期間限定の趣味なのかもしれない

10月16日

 久々の日記になってしまった。

 前回の投稿は9月10日だから約20日ぶりの更新である。冒頭の日付について、普段どのサイズの文字で表記していたかを忘れるくらいには長い間であった。

 この間僕に何が起こったのかといえば、それはたびたび言及している通りであり、地元企業に再就職をしたのである。

 朝7時に起きる生活に適応することができるかどうか非常に不安なところではあったが、今に至るまで寝坊や遅刻はしていない。案外やってみればどうということはなかった。逆に今となっては、夜起きている方が辛いくらいである。

 人間ってのは、変わってしまうのだなぁ。 

 

 現在は仕事上必要な資格を取得するべく職場にて勉強をしているのだが、毎日机に張り付いて8時間勉強するだけの日々を過ごしていると腰も痛くなるもので、少し体を動かしたくなってくるものである。

 そんなわけで、仕事終わりに運動をしようということで毎日ジムに通っていたら、この1ヵ月で5キロ痩せた。BMIでいうと1下がり、健康な身体の獲得に向け大きな進歩を果たした1か月間であったと言える。

 

 そして去年9月末にこの日記を初めてから1年が経過した。あれから1年しか経っていないのかと思うと、1年の長さに驚いてしまう。

 ちょっとめでたいということで、ローソンに行ってチョコベビーを2つ買ってきた。

 久々にチョコベビーを買って食べてみたが、金太郎飴のように練りこまれていた星模様とかが一粒も無かった。流石に僕が購入した物だけたまたま入っていなかったということは考えずらいので、おそらくは制度そのものが消滅したのだろう。別にそれで困ることはないし、損しているわけでもないと思うのだが、ちょっとだけ悲しい。

 

※そんなことを書いてからさらに半月ほどが経過した今日、ようやくまた日記を書こうとしている。ちなみに体重はさらに1㎏減。ダイエットの方は順調です。

 

効率

 周りを見渡すと、いつの間にか効率を崇める雰囲気が支配的になっているような気がしている。

 効率的であることは興味深いが、面白くはないよな。東海道新幹線がいい例だ。

 僕としては効率化を図る仕組みや方法について、その原理のようなものに対しては興味が湧いても、効率化されたシステムそのものの成果についてはあまり興味がない。いつの間にか東海道新幹線にはN700系しか走らなくなってしまったが、かつての他車種が入り乱れて運行されていた様子には心が動いた記憶がある。

 現在は駅に行って切符を買えば、同じ車両がほぼ同じ所要時間で目的地まで連れて行ってくれるが、昔はどの車種の「のぞみ」が来るのか、ちょっとしたくじ引き状態で、そのうえ車種によって所要時間が異なっていた。

 もちろん、「ビジネス」の足としては現在の形態が進化として適切であるとは思うが、そのためにワクワク感は犠牲になってしまった。

 もちろん、過度にワクワク感を求めて目的を見失っては元も子も無いのだが、目的のみに傾倒することは僕には苦痛だ。

 

 僕としては、効率は求めている時が一番楽しいのであって、効率化されてしまった瞬間に事柄は面白みを失うと思う。

 発動機の方のヤマハがバイクについて「この面倒くささがたまらない」というキャッチコピーで何らかのキャンペーン的なものを展開していたが、まさにそうゆうことなのかも。

 最近母の車の車検に合わせて「試乗しませんか?」とマツダCX-5を代車として借りた。端的に行って非常に運転しやすく、乗り心地もデミオと比べて圧倒的と言えるほどであったが、様々な装置が自動化されすぎて、僕がどのように車の操作に関与していいのかがわからなくなってしまった。ライトも、ワイパーも、高速道路ではアクセルまで自動。車とは移動のための手段なのだし、おそらく車の運転には人の操作が介在しない方が道路は安全になるであろうと予想されるから悪いとは言えないのだが、面倒くさくなさ過ぎて、かえって運転するのが億劫になってしまうような……

 もちろん実際に所有したとすればそれに慣れていくものだとも思うのだが、果たして楽しいかなと自問したときに、僕はまだ自分で楽しく運転をしたいと思ってしまう。

 

 運転の自動化に対して退屈を抱くのは、いわば僕の欲望であるが、果たしてこの欲望が不適切であるとされる日がいつか来るのだろうか?

 車の運転というのは、趣味としてはかなり危うい存在だよなと常々思う。危ういというのは、もちろん交通事故やそれに伴う被害者の発生というリスクについてもそうなのだが、あくまで車の運転が必要であるという社会通念の中にしか運転という行為は存在できないという点でも十分に危うい。

 自動運転が発展し、人間が自動車の運転をする必要性が無くなった時、危険行為である運転というものを果たして趣味とできるのだろうか?

 運転という行為の外側を包む「必要」というベールが剥がれたとき、きっと僕は一つ趣味を失うことになるのだろう。

 

corvuscorax