渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

スマホにて2

5月28日

 

⚪︎スマホで日記を書く時に気になること

 

1.スマホに擦れて、親指の皮が向けてしまうこと。

 

2.スペースの幅がパソコンと異なること。

 

3.親指の付け根と瞼が異常に疲れること。

 

4.バッテリーがすぐに切れること。

 

5.疲れてしまって、書いてる途中でどうでも良くなること。

 

6.誤字脱字しやすいこと。

 

7.少し触れただけで操作したことになってしまうこと。

 

8.指が太過ぎて、狙った場所をタッチできないこと。

 

9.マウスカーソルがない為、一度打ち込んだ文の途中を修正したい時、該当部分を指定することが難しいこと。

 

10.疲れの割に分量はそれほどでもないこと。

 

11.タグや文字サイズ、見出しなどの設定ができないこと。

 

 

⚪︎スマホで日記を書く時に気に入っていること

 

1.写真を投稿しようとした時に、面倒な操作がないこと。

 

2.書くだけで疲れてしまうので、ある程度書いただけで一定の満足感を得られる事。

 

3.どこでも書けること。

 

 

まとめ

 

自分は弘法ではないので、道具はしっかりと選ぶべきであると思った。

 

corvuscorax

日記を記録として活用していこうよ

5月27日

 文を書く習慣をつけようということで始めたこの日記も、冬眠を挟んで早8カ月が経過する。

 ここいらで「いっちょ、これまでの日記を少し見返してみるか」と言うことで過去記事をあたってみたのだが、それぞれの記事が独立しすぎなのではないかと感じた。

 そもそも僕はいろいろなことに関して”もち”が悪いので、昨日考えていたことを翌日も引き続き考えるようなことは稀だ。昔のゲームみたいに、セーブのできない一発勝負の連続を僕は生きている。基本的に昨日考えていたことなんて今日の朝にはきれいさっぱり忘れているし、今日考えたこともやはり明日には忘れているはずだ。

 日記を始めた当初の僕は、日々消えていく自分について勿体ないと感じたがために日記を書き始めたと語っている。確かに日記にはその日考えたこと、思ったことが記されていて、見返してみれば「あ~確かにそんなこと思ったっけな?」となるくらいには記録として機能している。

 ただ、これだけではまだもったいない。消えていく自分が勿体ないのはなぜかと言えば、本来積み重ねることが出来るはずの何かが積みあがらずに忘れ去られていくことに虚しさを感じるからだ。

 現状の日記は、ただ思ったことをそのまま書き出して放置されている状態で、これでは消えていくこととほとんど何も変わってはいない。文字になったことによって多少忘却に対する耐久度が上がっただけで、そこから何かが産まれているかと言われたら答えに詰まるのである。

 仕事なりスポーツなり勉強なりでも同じことだが、本来記録をとることを目的にしてはならないのだ。記録は何かに活かされてこそ価値が生まれるのであって、何も産まない記録はただ記録媒体の容量を埋める在庫に過ぎない。

 ただなんでも記録することが無意味であるとは言っていない。少なくともデータ収集の段階において、データはとることにこそ意味がある。問題は後からそれらを考察し、何らかの結論を得ることが出来ているかどうかだ。

 一見無意味な記録を何に活かすのかが腕の見せ所であり、それこそが記録の持つ価値なのである。

 「たまには過去記事も見返そう」とたまに発言してはいるが、今まで本気で読み返したことが無かったのだが、せめて月一回くらいは過去記事に目を向ける日を作ってみてもいいかもしれない。

 今月末から「見返しの日」を設定することにした。毎月最終日はその月の記事を見返してそれらについて言及する。(今月は31日。)

 ただ、一か月分の日記はそれなりに量がある為、ひょっとすると数日に分けて見返すことになるかもしれない。それについてはやってみてからのお楽しみです。

 

生命圏

 昨日の日記を見返したところ「人間は人間圏を発明して自然に対抗してきた」ということを言っているのだが、それについてさらに進んでみることにした。

 

 人間は人間圏を形成してその生存を確固たるものにしてきたわけだが、これはよく考えると拡大された縄張りであると捉えることが出来ないだろうか?

 「縄張り」とは何か。それは何らかのパラメータに基づいて決定される境界を設定し、その所有者が排他的に利用できる空間のことである。

 生命にとって境界が大事であることは言うまでもない。生命が生命であるためには細胞膜等によって非生物圏から隔離されていることが必要だからだ。ある意味「身体」とはあらゆる生命が共通して所有している”縄張り”と捉えることもできる。生物とは境界によって成り立つ存在であるからこそ、他の物質よりもはるかに境界に対して敏感なのかもしれない。生命にとって縄張りは割と根幹に位置する概念である可能性があるのだ。

 

 縄張りを持つことによって生命は領域内の物質循環をある程度コントロールする権利を手にする。

 実際にヒト以外の動物種も自身に都合の良い環境を作り上げようと一定の行動をするように見える。

 ビーバーはダムを造るし、繁殖期に入って営巣したカラスのつがいは縄張り防衛によって自分たちの子育てに都合良い環境を維持する。アメーバだってよい餌場を見つければヌメリ汚れを作り出してその環境を維持しようとする。

 とすると「自分の周辺環境を自身の生存に有利なように作り替えようとする欲求が潜在的に存在している」というのは人間に特有の欲求ではなく、収斂進化的に多種が持ちうる欲求なのかもしれないし、そもそも生命共通の欲求である可能性もある。

 そして都合の良い周辺環境から物質を取り込み、個体・種、あるいはそれらを超えた生命全体の保有する質量を最大にしようとしているのではないか?

 

 色々考えをねじってみると、そもそも生命は物質を獲得することを至上命題として存在しているのではないかとも捉えることが出来る。

 生命最大の目的としてよく言われていることは「増える」であるが、そもそも生命体は自身に属する物質の量を増やしたがっているのであって、生殖による世代交代やそれに伴う進化、環境適応による生息域の拡大などの生命の様々な行動はその手段に過ぎないのではないかと感じる。

 例えば絶滅は種にとって、死は個体にとって悲劇だが、生命にとっては悲劇でも何でもないただの損切りである可能性が高い。生命は互いに争っているように見えて、その実”生命”という性質を持つ存在が保有する物質の総量を増やすために、その存在の根っこの部分で共通するその目的達成に向けて協力させられているのかもしれない。

 こうして僕らは今日も生命という強大な存在の掌の上で踊らされているのだ。

 これは人間にとって死に意味が生まれる救いでもあるし、生の意味が薄れる呪いでもある。

 

corvuscorax

ネガティブを流す水洗トイレ

5月26日

 昨日はネガティブが爆発してつらつらと弱音をネットで言ってしまったなと思うと恥ずかしくなってくる。昨日の日記を一言で表せと言われたら、僕は「排泄」が最もしっくりくると思う。人間だれしも精神上のラバトリーをどこかしらに持っておくべきだ。

 昨日のあれは何だったんだと思いはするが、書かなければよかったとは思えない。自分の中に渦巻くものを吐露する必要があったのだ。

 ネガティブは受け入れるからこそ力になるが、時に吐き出さねば自分を保てぬ時もある。揚げ物の油も使用し続けると酸化していくように、自分を突き動かすネガティブも気が付かぬうちに劣化していくのである。酸化した油を廃油するように、ネガティブも時々入れ替えなくてはならない。たまたま昨日がその日だったのだ。

 

評論へのあこがれがあるんだろうな

 昨日、実家に立ち寄って高校時代に使用した教材の一つである”ちくま”の評論副読本を回収してきた。

 というのも、以前からこの日記上での文に既視感を感じるというか、書いているときに何かにつられているような感じがしていたのだが、おそらくは学校の国語の授業で読んだ評論に引っ張られているのだということに最近気が付いた。

 それを確かめるため、また単純に評論を読んでみたかったためこれを手元に置いておきたかったのである。

 

 これに気が付いた時には腑に落ちる音が幻聴として聞こえたほど納得した。なぜ僕が日記書くことを決めたのか、なぜVログやツイッターではなくてブログを選んだのか。その根っこがよくわかっていなかったのだが、おそらく僕は日記を通じて評論文のまねごとをしたかったのだ。

 それにしては整然としない文章を書いているが、それは能力の問題であり心構えの問題ではない。

 仮にしたいことをイメージするだけでそれができるようになるならば誰でもプロ野球選手になれてしまうはずだ。別にプロしか野球をしてはいけないというわけでもあるまい。野球が下手だからと言って野球をしてはいけないわけではないのだ。

 僕はただ評論文のような文を書きたいと思いながら日記を書いているに過ぎず、教科書に載りたいと思っているわけではないのである。要するに、自身の文章力と思考力が許す範囲で最も評論文に近い文を書こうとしているのだということが言いたい。

 例えば、多くの人は幼少期にごっこ遊びに興じたことがあるだろうと思うのだが、僕は日記を”評論文ごっこ”と捉えているのかもしれない。そうゆう娯楽の手段として最も手軽だったのがブログだったのである。

 

 ではなぜ評論文のような文を書こうとしているのかという疑問も湧いてくるわけだが、自分を見つめてみると理由と思われるものが浮かんできた。

 1つ、国語のテストで貴重な得点源だったから。

 僕はあまり国語が得意な方ではなかった。物語は出典との相性によって得点に大きなブレが生じるし、古典はまじでよくわからなった。ただ、評論については比較的安定して得点することが出来ていて、得点に繋がりやすいという意味で評論からはやさしさを感じていた。

 その影響で評論文に対してなんとなく親近感が湧いてくる。やはり人間は苦手を潰すよりも得意を伸ばす方がはるかに楽しい作業であると感じるものだ。往々にして、できない事よりもできる事を好きになりがちであるから、文章については物語よりも評論のほうを好きな形だと認識したのだろう。

 人は好感を持っている人の真似をしてしまうものらしいが、評論に親近感を持った僕は、気づかぬうちに評論文の真似をするようになってしまったのかもしれない。

 

 2つ、こちらが最も根源的な理由だと感じるのだが、他人に影響を与える行為に憧れたから。

 人間は山野を切り開き、川を囲い、自分たちの生存を脅かす外敵から防衛して自らの生存に有利な環境を作り出して生きる動物である。人間の生存に適するように改造された環境システム、人間が台頭する以前から存在するバイオームや大気・海洋圏に影響を与えうるレベルの物質循環システムである人間圏を発明し、この星における生命の霊長であるという自覚を手に入れた。

 要するに、人間には自分の周辺環境を自身の生存に有利なように作り替えようとする欲求が潜在的に存在しているのではないか?

 そして人間は物理的な武器によって物質世界を制圧する過程で、副次的に生まれてしまった情報や言葉という元素によって構成される精神世界を発見した。人間はその世界おも自分の支配圏へ取り込もうとして言葉を進化させ、これを活用して社会システムを作り上げた。

 人間は言葉によって他者へ影響を与えることが出来る。社会において言葉とは事実上究極かつ唯一の飛び道具であり、そして自分の言葉が他者に影響を与えることは社会環境上に自分自身のニッチを作り上げる行為に他ならないのではないか?

 決して褒められたものではないかもしれないが、人間の根源的な欲求として他者への影響力というものはどうしても魅力的に映ってしまうのであった。

 

 そうゆう単純な憧れがあったのだろう。

 多少読めてしまうからこそ、どうあがいても届きようがない文章力に憧れが募る。嫉妬するには自分の能力が足りていなかったが、少しでもそのような文章を書けるようになりたいと当時から無意識に感じていたのかもしれない。

 

※AIにタイトルをつけてもらったら「精神上のラバトリー」という候補が挙がった。既視感あるなと思ったら、これってコナン映画の副題っぽいなと言うことに気が付く。当て字は何にするべきか。「水洗便所」と書いて「ラバトリー」と読むのが順当だろうか? 「劇場版 名探偵コナン 精神上の水洗便所」ひょっとすると2035年ごろのコナンはこんな感じでやってるのかもしれない。

 

corvuscorax

地理院地図であ・そ・ぼ!

5月25日

※本日の日記があまりにも暗すぎてとても読めたものではなかったので、下書きしてったやつも投稿しておこうと思う。

 

 僕は昔から地図を眺めるのが好きな少年だった。

 例えばディズニーランドに行けばパンフレットを5枚くらいもらって帰ってきて家で眺めてにやにやしていたし、八景島に行って水族館に入らずにパンフレットに載っている地図をみてニヤけながら島内を歩き回るような子供だった。

 水族館と言えばパンフレットに載っている館内図も好きで、各エリアごとの繋がりを知ることが楽しかった。

 今でもそれなりに地図は好き好んでみている方だと思う。

 今日は久々に地理院地図を開いて遊ぶことにした。

 

地理院地図

 まずは出典を。

 以下のリンクから地理院地図のページへ飛ぶことが出来る。

maps.gsi.go.jp

 今日の日記で用いる地図類は地理院地図を僕が加工したものである。

 

 さて今日はどうしようか、まずは東京都内を見てみることにしようかな。

 最近は様々なメディアで盛んに取り上げられているからご存じの方も多いだろうが、東京都内の地形は想像以上に起伏がある。

 陰影起伏図を合成して都内を観察すると、毎回のように新たな発見があるものだ。

 

 小一時間東京都内を地図上で一通り味わった。

 ここいらで一つ、今日の日記のネタに何か地形を紹介してもいいかもしれないと思った。

 どこがいいかしら。

 なんとなく目に付いたので「国立」の地図を用いて小話でもしようと思う。

 

国立(くにたち)

 以下に地図を示す。

 画像上にも表記されている通り、地理院地図からの出典である。

出典:地理院地図 電子国土基本図

 国分寺と立川に挟まれているから国立(くにたち)。なかなかかわいげのあるネーミングだが、「こくりつ」とも読めてしまうがゆえに色々悩ましいこともあるであろうことが想像できる。

 それはさておき、国立駅南側の町並みは見事な放射直行路として整備されている。

 地図を見ると、南口からまっすぐ伸びる目抜き通りに加えて、その左右45度の角度でまっすぐな通りが通っていることがよくわかる。

 基本的に土地は長方形に区画されており、道路もそれぞれが直角に交わっている。

 もちろんそれだけでも十分に面白いことなのだが、詳しく地図を読み込むとさらに面白いことが見えてくるのである。

 注目していただきたいのは、国立駅から見て南東のエリアである。

 いかに注目すべき部分を書き込んだ拡大図を挿入する。

上の地理院地図を基に作成

 この青線で囲った部分は国分寺市との境界にもなっているのだが、どう見てもおかしい。

 いくら市域が異なるからと言っても道路の形状が不連続すぎやしないか?

 接続する道路も少ない。

 燕市三条市のように、国分寺市国立市の仲が死ぬほど悪いという事でなければ、この線上に土木工事上の何らかの制約があることは明らかだ。

 

 こうゆう時はたいてい高低差を調べると謎が解けることが多い。

 今回も例にもれず、高低差に着目して作図する。

 組み合わせるのはグレースケールの標準タイルと陰影起伏図、そして”自分で作る色別標高図”だ。今回作成した色別標高図は黄緑と黄色の境を標高80mに設定した。

 

※グレースケールとは本来色付きで提供されている地理院タイルをモノトーンで表示する機能で、今回の色別標高図などと合成するときに便利である。

※陰影起伏図とはその名の通り、土地の凹凸と白黒の陰影で示した図である。等高線を読んでも土地の起伏はわかるが、この図を見ると直感的にその土地の形が見えてくる。

※自分で作る色別標高図とは、こちらもまたその名の通り、色分けする標高の範囲と色を任意に変更することが出来る図である。この地図ではお手軽に海面上昇で水没する範囲をシミュレートすることもできる。青く表示させる範囲を1mから徐々に上昇させながら「へー、〇〇mでここが沈むんだぁ」とほくそ笑んでいるときがたまーにある。

地理院地図にて作成
電子国土基本図・陰影起伏図・自分で作る色別標高図を合成して作成



 なるほど、想像していたよりもきれいに表れてくれた。

 図によれば、例の線上は崖になっているらしいという事がわかる。別に国分寺・国立両市の仲が決定的に悪いという事は無かったようである。(実際は知らんが。)

 これは国分寺崖線

 地図・地質界隈では知らぬものがいないと言っても過言ではない有名な地形だ。古い時代に多摩川が削りだした崖である。

 この崖線が国分寺と国立の市境であり、ここを境にして町の作りが一気に変わっているのである。

 

 申し訳ないけれども僕はこうゆうことを面白がって日々生きているのである。

 「それがどうした?」と思う人々もいらっしゃるだろうが、趣味嗜好とは人それぞれなのである。

 

家で地図観てニヤニヤしている

 僕の趣味の一つとして地図読み・地図いじりがあるというのはこの日記上でもさんざん言及してきたことである。

 地図をみてにやけるとは上記のようなことだ。

 運悪くこの日記を読んでしまった諸氏におかれましては、このような趣味もこの世には存在するのだという事を知っていただければと思う。

 また機会があれば、懲りずに国立以外の場所についても地図を使って遊んでみようと思う。

 

corvuscorax

自分からはどうあがいても逃げられない。

5月25日

※ちょっとこの日記は暗すぎる上に長すぎるので、同日に挙げた「地理院地図であそぼ」の方をぜひ読んでいただきたい。

※じゃあなぜこの日記を公開したのかと問われると返す言葉が無いのだが、せっかく書きながら思案したのだからできればなんかしらの成果が欲しかったのである。こんなに考えたのに非公開のままにしておくのは自分が可愛そうでしょ?

 

 近所の小学校では運動会が開催されているらしく、部屋の窓を開けるとキジバトの独特な鳴き声と朧げなヨーデル体操(?)がミックスされた平和の音が入り込んできた。

 「運動会前夜は結構楽しみだったが、いざ始まると実際楽しくなかったな。」なんてことを思い出す。

 

 今日は件の友人と昼にラーメンを食べようということで、休日であるにもかかわらず早起きをしてみたわけだが、別に盛んに言われているほど気持ちよくはなかった。

 早起きは三文の徳なんて言われているが特に目に見えて良い事は起きず、せいぜい少しだけ自己肯定感が高まるような気がしただけだ。三文なんて所詮こんなものなのである。

 とはいえせっかく慣れない早起きをしたのならば少しでも良い一日にしてやろうということで、朝食がてらスターバックスへ行ってみた。(もちろん持ち帰り、というかドライブスルーで)

 カフェモカについてはあらゆるコーヒーチェーンの中でスタバが一番好みということは以前の日記にも書いているが、最近は他のメニューも試し始めている。この前ソーセージロール(うろ覚え。パイ生地でソーセージを包んだホットドッグ的なやつ。以前岩手・久慈の琥珀博物館で食べたリトアニア風ホットドッグに似ている。)を注文して食べてみたところ結構おいしかったので他のフードも試してみようという気持ちが沸き上がり、今日はチョコチャンクスコーンを注文した。ゴロゴロと粒度の粗いチョコレートが混ぜ込んであるアメリカンスタイルのピザ切りスコーンで、慣れない早起きの影響で少し調子が悪い朝に食べるには苦労するくらいボリュームがある。

 さらにカフェモカも注文してしまったため、糖分の摂取量が完全に天元突破してしまった。痛む頭が過度な甘みの影響でさらに痛みが増してきた。

 こうゆうことしてるから僕の健康状態はいつまで経っても良くならない。

 

 友人宅とは車で2時間半ほどの距離がある。今日は互いの中間点である地元近くのインターチェンジ付近に集合しようということで10時半ごろ家を出た。(そして道中、上記の通りスタバに立ち寄った。)

 道路がやけに混雑しているなと思ったところで、そもそも土日の昼間に外へ出ること自体久しぶりであることに気が付く。

 基本的に人の多いところに行くことが苦手な僕は、世間が休日の日に外出することはほぼないのだ。

 

 なぜ人の集合が苦手になってしまったのかと考えてみたが、いろいろと原因になりうる体験が浮かんでくる。

 例えば小学校の遠足が例として挙がる。遠足は100人近い人間が動き、歩道や電車を特定のコミュニティに属する人間の集団が事実上占有してしまう。それによって周囲の人々に気を使わせていることを感じるのが嫌だった。

 僕は遠足によって、所属という行為の暴力性を強く意識してしまった。集団に属し、”集団である”という理由で人にインパクトを与えてしまうことを当時の僕は嫌ったのだろう。

 所属の暴力についてもっもとよく見かける例として、行列への割り込みがあげられる。個人レベルで見れば明らかに割り込み行為となるにもかかわらず、グループであれば後から構成員が行列に合流してもなんとなく許されるのは一体何故かと考えれば、それはやはり人間は集団を恐れるからと考えるのが最も妥当に思える。

 通常の満員電車と、同質的集団が占有している電車とでは明らかに気の使い方は異なるように見えて、そんな集団に属する自分を意識するとなんとなく加害者意識が働いて罪悪感が刺激されてしまう。対面して話し合っている二人の人間の間をわざわざ通り抜けるような、そんな罪悪感だ。

 よく言えば絆とか連帯感のようなものなのかもしれないが、その暴力を自分が持つことに快感を感じるには周囲の眼が気になりすぎていた。

 

 例えば、親からの教え。不良グループに属するような人間とは遊ばない方が良いと言われていたのだが、逆にどのような人間と遊ぶべきなのかは示されなかった。

 別に自分の親が毒親だったとかそういう話では無い。逆に「○○君と遊びなさい。」と遊ぶべき人間を指定する方がよっぽど問題があるだろう。人間関係に関する嗅覚をはぐくむためには善きサポートと言えるのかもしれないし、別に強制力を持って僕の人間関係に介入してきたわけではなかった。

 しかし、僕には不良的な友達がそれなりにいた。そのような言い付けがあると意識したうえで彼らと関わる事は、当時の僕としては結構つらかった。

 彼らのことは嫌いではないのに、親の言葉が脳裏をよぎる。その言葉を否定しきれない僕の心は、彼らを自分から引き離そうとする。友達なのに、楽しいのに、ここから離れなければいけない義務感がある。

 逆もまたつらかった。優等生的な子たちと遊んでいるときも楽しかったが、これは言い付けを守ったという達成感ではないのか? 本当に僕は自分で彼らを友人として選んだのだろうか?

 中学生にはありがちな葛藤であるが、僕は最後までそこから抜け出すことが出来なかった。

 

 そもそも僕は自分本位な人間だから、周囲の意思によって自分の行動が制限されることが嫌いだ。そのくせ自己主張が苦手なものだから、集団行動の意思決定に自分が参加することが出来なかった。(これについては「鶏が先か?」という問題であると信じたい。もしその意思決定に参加することが出来ていればひょっとしたら集団行動を好きになっていたのかもしれない。自分本位な性格は集団に属せなかった反動だと思えば多少は救われるが、結果がこれではどちらにせよ目は当てられない。)

 自分の意思が一切反映されないまま、なぜか自分を巻き込んで集団は進んでいく。それは僕の意思ではないのに周囲から見れば確かに僕の意思を含んでいるように見えるわけで、これがとても気持ちが悪かった。自分じゃないものが自分であるかのようにふるまう様を見ていられないのだ。

 

 結局それらがねじれあった結果、人と関わる事そのものから逃げるようになってしまったのである。

 それなりに年を重ねた今、これがあらゆる問題の根源となって襲い掛かってきている。仕事も友人関係も、家族についても。

 僕が人間関係から逃げ続けている限り解決しない問題が日々押し寄せる。

 

 おそらくこれからの僕はますます嫌な人間になっていく。

 自分は良くない人間だと思っていても、その自覚だけでは何も変わらない。そりゃ自分の精神世界には少なからぬ影響があるが、その影響力は到底物質世界に届き得るものではない。

 じゃあ何か行動するかと言われたら、決してそんなことない。むしろ嫌な人間になっているという自覚は、さらに自分を嫌な人間へと変えていく。

 正しくあることが出来ない自分に諦めがついてしまうと、そこから脱出することに意味を感じなくなる。

 人間は忘れる生き物だ。自分が信じた正義に向かって努力していた事も、決心という言葉で自分を縛った事も、一度破れてしまえばもう戻れない。失ったものの感触を感じることはつらいから、それを見ないように頑張って忘れようとしてしまう。

 そして自分の無意識がそれを意識的にに視界の外へ追いやった時、忘れた自覚が生まれた時、人は慣れる。慣れとは、無意識が行う意識的な忘却の結果だと僕は感じる。

 良くも悪くも人間は慣れる。例えば支払いの滞納も、本当にきつく感じるのは最初の一度だけだ。あの時感じた罪悪感はとてつもなく大きなものだったが、2回目はもう何も感じない。

 本当にダメなことだとわかっていても、僕の頭はその罪悪感を忘れて自分を守ろうと必死だ。おそらく、僕の頭は巨大な罪悪感を感じた時の努力の方法をそのように学習してしまっている。

 

 自分で納得できない生き方をしていると、現状に納得するために努力のキャパシティがとられてしまって、本来行うべき努力を怠らざるをえなくなる。こうなると、実感としては頑張っているのにもう正しくなることはできない。それを思うと、ますます正しくある事に意味を見出すことから目を背けることに傾倒するようになる。耐えがたい現実から目を背けるようになる。

 自分が自分についた嘘は、時間が経つにつれて本当になっていく。自分の中で新たに生まれた正しさを信じるようになって、本来自分がどう生きたかったのかを見失っていく。

 たまにその嘘から目覚めそうになると、正しげなことをして少しだけ満足感を得る。根本は逃げたままであるにもかかわらず、「いつでも正しくなることが出来る」と錯覚することで更なる深みへ逃げていく。

 では、深みへ逃げる自分を見ているのはいったい何者なのか? そういって自分が分からなくなったふりをして生き方を改めることから逃げ続けている。

 なぜうまく生きていけないのかと考えても無駄だ。人間はなるようにしかならない。そう信じることが出来てしまっている自分に改心の道は残されていない。人間はいつでもやり直せるなんて聞こえの言い言葉を傷薬にして、自分をごまかしながら生きる。そんなはずはないと、仮にそうだったとしてそれが早いに越したことはないと思いながらも、それで傷を癒す快感から離れられずにいる。

 僕は僕から逃げられない。いつまでたっても自分から抜け出すことが出来ない。努力不足と言われてしまえばそれまでだが、僕だって自分なりに足掻いてはいるのだ。すると今度は「自分なり」なんて言っている時点で甘えすぎだという声も聞こえてくる。

 自分を甘やかす自分の中に、自分を叱責する自分もいる。泥沼から手をのばして僕の足を掴んで離さないくせに、泥沼へ進んで入ろうとすると押し返してくる。

 酔っぱらいたくなるし、煙草も吸いたくなるし、妖怪のせいにしたくもなる。

 ここまでの段階でAIにて記事タイトルを付けたら「自分との闘い」とか「泥沼からの脱出」とか色々提案してもらえたが、決してそんな前向きな気持ちでこの記事は書いていない。こう思ったから何かしようとかそうゆうのじゃない。ただ「自分はこうであり、それから逃げられない」と感じただけだ。

 

 何をやっているんだろうな。ネットに公開する記事にこんなネガティブなことをさんざんまき散らして、懺悔でもしてるつもりかっての。そんな大層な人間じゃないよ、お前は。夜中に酔っ払いが吐いた道端のゲロはカラスの朝ご飯になるが、知らん人間がただネガティブを発露しただけの文の価値はそれ以下だ。

 本当はもっと意味のあることがしたい。ただ指を滑らせてわけのわからないことを書くだけならいっそのこと何もしない方が幾分かましだ。

 誰でもネガティブにはなれる。本当に難しいのは、ネガティブに支配された状況でポジティブを前面に押し出すことだ。悪い状況をただ「悪い」というだけの人間になんの面白みがあるというのか? 暑い日にただ「暑い暑い」言って不機嫌になるだけの人間を誰が好きになれるのか?

 どう考えても「暑いからクーラーを開発しました。」という人間の方があらゆる面で面白いし好きになれるだろう。

 「じゃあどうするの?」と聞かれてもすぐに答えは出ないが、一応表面上の僕はこの性格を何とかしたいと願っている。ただ、願っているだけでは何の解決にも……

 もううるさい。頭に浮かんだ言葉に対し、常にセットでそれを否定する言葉が湧いて出てくる。何をしようと思っても、他ならぬ自分がそれにブレーキをかける。

 昔から自分はこうだっただろうか?

 少なくとも大学ぐらいまではもっとポジティブな人間だったと思うのだけれども。おそらく、大学までの僕は世界を舐めていたんだな。「なんとなくなんでもできるんじゃないか? なんとなく自分はすごいのではないか?」いわゆる根拠のない自信に取り囲まれて生きていたのだろう。

 今となっては周囲の人々から取り残されてすっかり自信を失ったにもかかわらず、その源泉であった自己愛だけが肥大して自分を甘やかす努力回路が脳内に形成されてしまっているように思える。

 自分を掴んで離さない”自分”の正体は自己愛なのだろうか? ならば自己愛を捨てれば僕は前に進めるのか?

 僕は自己肯定感が高すぎるのかもしれない。もっと自分を雑に扱うようにすれば、少なくとも現在のただ時間を垂れ流すだけの存在よりは随分ましになるかもしれない。

 こう思うと、自己肯定感と自信は全くの別物なのだなとつくづく感じる。(少なくとも他人を納得させるに足る)自信には根拠が必要だが、自己肯定感に根拠は不要だ。ただ、自分をかわいがるだけでよい。

 座っていてお尻が熱くなっちゃったら少し腰を浮かせてやればいいし、持久走で辛くなっちゃったら歩けばいい。

 僕はこれをやりすぎて、自分だけを可愛がるモンスターになってしまったのだろうか? 一種のナルシストだな。自分のことを可愛いと思っているから自分のことが可愛く見えているだけだと言ってやった方がいい。このままでは本当に人格が崩壊して後戻りできなくなる。

 僕はいったいいつまで自分を甘やかし続けるのだろう? 甘えを取り除く算段は全くと言っていいほどたっていない。果たしてどこまで逃げられるのかについては少し興味があるが、いつか来るその限界の景色はどれほど凄惨を極めるのかと想像すると怖い。

 こんなに色々言っていても、また他人から何かを言われても、まだまだ僕は自分のことを甘やかすことが出来てしまう自信がある。こんな自信は捨ててしまいたいが、そういうわけにもいかない。意識的に捨てることが出来る自信はもはや自信とは呼べないのだから。

 

corvuscorax

ダメだこりゃ

5月23日

 いよいよ金曜日。明日は友達と出かけるぞと意気込んで彼に連絡を入れたら「明日は金曜だよ?」と一閃。

 ショックです。

 

 とはいえ、明日が休みなことに変わりはない。何をすべきか。

 したいことがあるわけでも、しなければならないことがあるわけでもない。出かける用事もない。

 寝るしかないか。

 

 何か書くことは無いかと巡らせてみたが、何も書く気が起きない。

 少しでも後から読み返して意味を感じる日記を書きたいのだが、何一つ話題が湧いてこない。喋りたいことはたくさんあるのだが、言葉にするのが面倒くさい。

 

corvuscorax

資格勉強は娯楽だよ

5月22日

 ここ数か月間、全然勉強してないなという事に気が付く。

 昨年は資格を取るのが楽しくなってしまって10度国家試験を受験して8つ資格を取得したわけだが、今年1月に気象予報士の試験を受けてからというもの、どうやら僕の中の資格熱はすっかり冷めてしまったらしい。

 結局僕にとって資格勉強はただの一過性の趣味であって、どの資格も取得できたこと自体は嬉しいが自信にはつながらなかった。資格を持っても何か生活模様が変わるわけなく、仕事に繋がるわけでもなく、増えたのは自分の分身たるカード数枚だけだ。

 何のために勉強していたのかがわからくなったわけじゃない、ただ単純に興味ある分野の勉強をして自己満足をしたかっただけだ。ただ、その満足感は自信につながるものだと思っていたのだが、そうではなかったという事に気が付いた。

 資格には確かな実感が無かった。資格を取得すると法律上できる事と責任は増えるが、実感としては少し知識が増えただけなので「この資格を持つ自分にはこれができる」という実感は全く湧いてこない。もともと基礎的な知識がある分野(物理・化学)の資格を選択して受験したこともよくなかったのかもしれないが、資格を取得した前後の自分に全く差異を感じないのである。

 

 全くの門外であるFPとか秘書検定とかを受験していればまた心持については違ったのだろうが、それはそれで問題があるようにも思える。

 昨年取得した科学技術系の資格について取得しても意味が感じられなかったのは、その先に広がる知識や技能の海に絶望したからだ。

 よく言われるように、資格はその仕事の入り口に過ぎない。乙四があれば一人でガソリンスタンドを管理運営できるというわけではないのである。「資格を持っている」⇒「仕事ができる」は必要条件だが十分条件ではない。

 結局資格それ自体が持つ意味は限定的であり、到底取得しただけで自信が付くようなものではなく、むしろその分野について見える範囲が広がることによって無力感すら与えられてしまう。

 最初からそれなりに知識を持った状態で資格取得した場合は、いわゆる手ごたえが少なすぎてその資格に価値を見出すことが難しくなってくる。その先を見据える余裕もあるために、実際に働いた時にこの資格が本当に活きるのかを考えてしまう。

 実際、資格などこの国に法律があるから存在しているに過ぎないのであって、実際に技術を担保するのは資格ではなくて経験だ。もしペーパードライバーとタクシー運転手のいずれかに車庫入れを依頼しなくてはならないとしたら、多くの人が後者に依頼するはずだ。(この例については一種と二種という免許上差異もあるが。)

 仮に資格を取得したとしても自分はペーパードライバに過ぎないし、これらの資格を活用した職に就く予定も無い。つまり知識欲と自己満足以外に資格を勉強する理由が見当たらないという事であり、資格勉強そのものに価値を見出すことは本来困難なのである。

 しかし人間だれしも自分が頑張ったことに意味がなかったという事を信じたくはないはずであり、0から勉強した資格について意味がないと信じることはそれなりに難しい。実際には資格試験の知識で対応できる業務などたかが知れているにもかかわらず、資格をパスしたことのみに自信の拠り所を求めてしまう危険がある。

 仮に僕が最も苦手とするマナーとか金融とか、もしくは英語など語学系の資格勉強をするとしたら、全くの基礎のまたその基礎から勉強することになる。そのような今まで自分が獲得した知識の活用可能性が狭い分野の勉強は尋常ではないなストレスがかかるわけで、それを乗り越えて資格を取得できたとしたら、その実際以上に自分が優秀な人間であるかのように見えてしまう可能性がある。

 

 それはともかくとして、頭のストレッチとして資格勉強は有効であり、また試験そのものは非常に楽しいイベントなので何かしら新しい資格を取ろうと目論んでいる。

 まずは昨年取りこぼした甲種危険物、ここから攻めよう。昨年の反省を活かして、今度は関東の会場で受験しようと思う。

 化学系では毒劇物も気になる。こちらはそんなに難しくないという噂も聞くので、夏ごろまで勉強して受験してみようかしら。

 無線の上位資格を目指すのも悪くない。何年かかけて一総通を目指すのも面白いかもしれないが、英語能力が終わっているので正直自身が無い。航空通くらいのレベルなら何とか対処できるが、それ以上になってくると太刀打ちできないだろう。そもそも一総通は国家資格の中でも最難関レベルだからおいそれと手が出るようなものでもない。まずは順当に一陸特を目指すのが良いだろう。

(そういえば消防設備士を取得する必要があったことを忘れていた。危険物より先にこちらを受験すべきかもしれない。)

 

 話は変わるが、今月6日に始めた「みんはや」のランクが”1対1”・”みんなで”ともにSに上がった。幼少期から無駄知識をため込み続けた結果が出たわけである。

 しかしSに上がった瞬間、これまでの戦績が嘘であるかのように負け続けており、A+とSを行ったり来たりしている。もちろん問題のレベルも上がってはいるのだが、何よりも「早押し力」的な何かが圧倒的に足りていないように思う。

 これについては練習あるのみという感があるので、今後に期待である。

 

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