渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

こんな天気のいい日にはダムへ行きたくなる

4月20日

 自転車のサドルに花粉(黄砂かもしれない)が積もっていて、それを払ったときに舞い上がった粉塵を大量に吸い込んでしまった。

 そのため、朝から非常に鼻の調子が悪かったのだがコーヒーを飲んだらなぜか治った。ひょっとすると気分の問題だったのかもしれない。

 「病は気から」という言葉がある。

 根性論として使われると厄介ではあるが、それを信じることで救われる場合も確かにある。

 

ダム

 こんな天気のいい日にはダムを見に行きたくなる。人間ならだれしも、そう思う瞬間があると思う。

 山間部だった僕の地元には市内にいくつか大きなダムがあり、うち1つは市街地からでも見えるほど近くに提体があって、ふと山を見れば目に入ってくるほどに身近な存在だった。

 多くは僕が産まれた時にはすでに完成していたダムなのだが、1か所は僕が小学生の時まさに建設中のダムで、子供のころは建設現場をたびたび見に行っていた記憶がある。

 徐々に積みあがる提体と、上に幾重にも張られた鋼線。それにぶら下がる鉄箱。

 ダム湖になる谷の上のやたら高い位置を通っていた国道は、現在水面から10mそこらを通る。

 あんなに深かった谷の質感は、高さに対する恐怖心と共に失われたまま帰ってこない。

 今思えば、あの体積(当時見た深い谷)を水が埋め尽くしているという事実に別種の恐怖を感じるが、当時の僕は山の上が水の上に変わったことにひどく感動したものである。

 

ダムの良さを考察

 色々問題はあるが、僕個人はダムに対して好感を持っている。

 ダムの良さはなんといっても恐怖感であると思う。

 提体そのものの巨大さに対する恐怖感に始まり、そこに蓄えられている想像の及ばない水量に対する畏怖、広い水面に対する恐れ。提体の上が解放されているダムの上を歩いて下を覗けば高さへの恐怖。また、なんとなく幽霊が出そうというスピリチュアルな恐れもある。

 それらの恐怖感の源泉は何だろうと思ったのだが、おそらく見えないことなのだと思いつく。

 

 ダムの水面下には本来深い谷が存在しているが、ひとたび水面に覆われてしまえばその下に存在した空間の存在感は希薄になってしまう。

 3次元を構成していた広大な空間は水面という2次元平面に変換されてその厚みを失ってしまうのだ。

 ただ、少し想像力を働かせてみた瞬間、この水平面の下には途方も無い体積が詰まっていることを思いだす。同時に、忘れていた高さへの恐怖心や、水中の暗闇に対する妄想を引き連れてくるのである。

 

 ダム本体もそうだ。

 ダムは巨大な建造物だが、その中身は見えない。

 知識として中身は岩だったり土だったりコンクリートだったりすることを知ってはいるが、それを確認する手段がない。

 進撃の巨人の壁ように、提体の中に得体のしれない何かが詰まっていたらどうしよう。

 そんな不気味な想像をしてしまう。

 

 ダムはその体積に対して見えない部分が多いからこそ、想像力が見えないものを見ようとして恐怖心を生み出すのだろう。

 なんとなく幽霊が出そうというイメージもここから生まれているのかもしれない。

 

スリルを求めているのかも

 僕が新幹線に興味を示したきっかけも恐怖心であったことからも、僕はスリルを求めて生きているのかもしれない。

 

 弓やバイクに興味を持ったのもそれが原因なのだろうか?

 今度バンジーとかやってみようかな?

 

corvuscorax

 

干支のリズム感に疑問を持って生きています

4月19日

 

 昨日とは対照的にすっきりした好天に恵まれた。

 花粉舞い散るこの季節においてこのような天気が果たして洗濯日和と呼べるのかは疑問だが、洗濯物にはもってこいなのかもしれないと思い朝一番に洗濯機を回す。

 昨晩焼いたパンとスコーンを食べて出勤するのである。

 

好天

 いい天気と言えば晴れという印象が一般的であるから「好天」と形容したが、個人的には曇りの方が好みである。

 もちろん雨漏りに苦しめられ、傘を苦手としている身として雨はそんなに好きではないのだが、だからと言って晴れが好きかと言われればそうではないのだ。

 もちろんこれは個人的な好みの問題であって、晴れの日が無ければ良いとか雨など降るべきではないといったような極端な話では無い。

 ただ気分云々の問題を抜きにすれば、水にぬれることも無く日射の有無による気温の較差が少ない体感温度が空間的に一様である)曇りという天気は、ほかの天気に比べて圧倒的に過ごしやすいのだということを言いたいだけである。

 

十二支

 ※タイトルには干支とつけたが、ここでは十二支の話をする。

 

 僕は小学生のころ干支を覚えることが出来なかった。

 正月にしか聞かない(もちろん年以外の単位として、時刻だったり方角だったりと色々使われてはいるが、当時の僕はそんなこと知らなかった。)ことからその必要性に疑問を持っていたことも一因だが、後半部分のテンポの悪さも大きな原因の一つだと思う。

 日本で支配的な十二支と言えば以下のものである。

 

子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

 

 見覚えのある並びである。漢字だけ見ればなんとなくかっこよくすら見える。

 ただ、口に出してみると個人的に突っかかる点がある。

          ここだ

           

子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

 

 巳と午の間、ここで決定的にテンポが崩れているように思う。

 子~巳までは平坦な道を俊足履いて猛ダッシュという感じがあるのに、午から後ろは健康マットの上をひぃひぃ言いながら歩かされている感覚がある。

 特によくないのが午~戌にかけての読み仮名が元の動物そのままであるということだ。丑寅もそうだが、ここでは目をつむる。)それでええんか君たちは。

 特に特に言わせてもらえば未はやばい。3文字・3音節も使うな。

 

 ここで問題にしているのは十二支の訓読みについてだが、音読みはどうか?

 調べてみると以下の通りらしい。

シ チュウ イン ボウ シン シ  ゴ  ビ シン ユウ ジュツ ガイ

子  丑  寅  卯  辰  巳  午  未  申  酉  戌  亥

 リズムという点ではよくなったが、今度はシ(子・巳)シン(辰・申)の二つも被りがあることが気になる。

 巳ー午間を境に前半を訓読み、後半を音読みにしてみてはどうかとも思ったが、それはそれで統一感に欠ける。

 ままならないものですね。

 

 なぜ今日の日記に干支を取り上げたのかたのかといえば、昨日読んだ地図学の本に関連がある。

 なぜ地図が干支にすり替わったのかと言えば、それは”方位(方角)”に関連している。

 上述通り十二支は方位神を表す用語にもなっている。

 十二支を用いた方角表現で最も有名なのが子午線(しごせん)だろう。子の方位(北)と午の方位(南)を結ぶ線であることからそう呼ばれる経線の別名である。同様に東(卯)と西(酉)を結ぶ緯線は卯酉線(ぼうゆうせん)と呼ばれる。

  方位の分け方はいろいろだが(最も基本的なな4方位に加え、それをさらに分割した8方位・16方位。さらに全周360度を10度ごとに区切った36方位など)十二支を用いたもので最も一般的なのは八卦と組み合わせた8方位ではないか?

 上記の子午卯酉の4方位に加え、北東・南東・南西・北西それぞれに対応する十二支由来の名称があるのだ。

 北東は丑と寅の中間であることから艮(うしとら)。

 南東は辰と巳で巽(たつみ)。

 北西は戌と亥で乾(いぬい)というのだが、個人的に問題にしたいのは南西である。

 もちろん南西も上記3方位と同様にその方角を挟む2つの十二支から名付けられているのだが、その方角は未と申の中間にあたる。

 では今までのメソッドで南西を表したとしたらどうなるか?

 未と申で坤(ひつじさる)。

 うーん……。

 

※書き終わってみると、「未」に対して散々な言っていることに気が付く。未年であることにアイデンティティーやプライドを持っている方もしくは単純に羊が大好きな方がいたら謝ります。申し訳ない。

 

出ました

 帰宅後、朝一で洗濯機を回したことを忘れて外に出てしまっていたことに気が付いた。(同居人は昼まで寝ているので、そもそも洗濯していたことを知らない。)とりあえずもう一度洗剤類を入れて洗濯機を回す。

 僕は洗濯のような、各作業間に時間差が存在するタイプの仕事が不得手である。

 これは中々大問題で、機械化や分業が進んだ現代において仕事や作業を外部に委託し管理する技能はもはや必須と言っていい能力なのであるにもかかわらず、それが欠如している。

 おそらく自分は出世できないタイプだなと思いながら日々を過ごすのだ。

 

corvuscorax

 

メンテナンスされた知識にあこがれる。

4月18日

 薄暗い空が広がる、すっきりしない一日だった。

 午後からは雨も降り始めたが、今日は珍しく傘を持って家を出たので事なきをえた。

 

 小学生のエクスカリバーこと傘であるが、僕は傘にまつわるあらゆる技能が不得手である。

 以前の日記にも書いた通り、まず傘をさすことが苦手なことは勿論、傘を持つかどうかの判断する技術も無い。挙句、傘立てに立てかけようものなら50%忘れる。

 合羽を着ることにしようか本気で検討したこともあったが、結局は脱着の不便さが目に付いてしまう。

 日常生活においては、やはり合羽よりも傘が有利なのである。

 

トイレに本が溜まる

 今日は仕事中時間が余っていた。

 せっかくなので、ずっとトイレ書棚に保管されていた本を読む。僕は昔からトイレに本を置く癖があるのだが、最近は棚に本が溜まっていく一方でちょっと困っている。

 

 トイレに本が溜まってしまう理由を考えてみた。

 本が溜まっていく条件は何かと言えば、読書量と供給量のバランスが崩れていることである。トイレにて読むことのできる量以上の本が棚に供給され続ければ当然トイレ内に本が溜まっていってしまうのだ。

 トイレはあまり長時間占有するわけにもいかない設備であるため、一回あたりの読書時間はどうしても限られる。本来なら雑誌や漫画などの、セグメントがはっきりしているような細かな時間で読むことに向いている本をセレクトすべきだったのだが、実際にはそうなっていない。

 持ち歩くほど情熱を持っていないが実家送りにするほど興味を失っていない分野の本、例えば海図や航海技術の本だったり、寺社仏閣建築の本だったり、数学の本だったりを”とりあえず”トイレの本棚に置いてしまっているのである。

 現実には、それなりの文字量のある本をトイレにおいて読んでみても全く頭に入ってこなかった。

「あれ、これどこまで読んだっけ?」

「こんなこと言ってたっけ?」

と、パラパラページをめくるだけでタイムアップである。

 

 トイレの本棚は自分の心の弱い部分を移す鏡なのだ。

 トイレに溜まっていく本は過去の自分が未来の自分(今の僕ともいえる)に向けた、「なんか、トイレとかに置いとけばいつか読み切るっしょ~」という無責任な期待の集積であり、結果読み切ることが出来ていない自分自身の怠慢の具現化なのである。

 

 トイレに本を置くのはやめよう。

 その一歩として、本日はトイレ文庫から一冊持ち出してきていたというわけである。

 
知識のメンテナンス

 5年くらい前までは地図にどっぷり浸かった生活をしていたのだが、最近は地図帳の新判を本屋で見かけたら購入を検討する程度にまで落ち着いた。

 当時の僕はそれなりの地図地理オタクで、家でも大学でも出先でも地図地図地図だった。

 ただ5年も経過すると地図に関する基本的な知識は劣化してくるものらしく、友人と地図について話していた時に知識がほころんでいることに気が付いた。いつの間にか地図について詳しいと言えるような人間ではなくなっていたのである。

 

 ここ数年で位置情報への関心のあり方は大きく変化した。

 ポケモンgoに代表される位置情報利用ゲームの発表や地理総合必修化など、地図地理を取り巻く環境は大きな変化の時代にあるのだと思う。

 そのような時代の中で知識の新陳代謝を失った人間は時代に置いて行かれてしまうのである。

 当時身に着けた知識の劣化は勿論、技術は進歩するものである以上製図に関する新情報などを取り入れねば「知っていた人」に成り下がってしまう。

 

 知識は耐久財のように見えるがその寿命は思ったより短く、どちらかというと消耗品に近いものなのかもしれない。

 知識を得たことのみに満足してはならないのだ。

 

corvuscorax

 

手作り感

4月17日

 本日は近くの駅にくっついているイトーヨーカドーへ買い物行った。

 製パンにハマってから約1カ月、フランスパンを作るときにモルトを入れてみたくなった。曰く、焼き色がきれいにつくようになるのだとか。

 午後5時頃「モルトってなんだろ? ビールのイメージしかないけど、なんとなくカルディに売ってそうだなぁ。」なんて思いながら適当にネットを漁ってみると、件のイトーヨーカドーに富澤商店が入っていることをネットで確認したのでそちらに向かうことにした。

 

富澤商店

 富澤商店には初めて行ったのだが、これはすごい。

 お菓子やパンを作ることが趣味の人間がまず通うべき店だと思う。まず、陳列されている粉の種類がすごい。その辺のスーパーで小麦粉を買おうと思ったら多くても10種類の中から選ぶのが関の山だろうが、この店には軽く20種類は置いてある。

 もちろん僕はそれらを使い分けられるほどのレベルではないのだが、それでもテンションは上がる。運動ができなくてもスポーツ観戦は楽しめるのだ。

 とりあえずお目当てのモルトを手に取った後ほかの粉も物色する。

 イーグルとリスドォルを1キロづつ買うことにした。

 食材だけではなく用具もたくさん置いてあってワクワクした。レシピを見て「そんなのいったいどこに置いてあるんじゃい。」と思っていた型カヌレの型とか)も一通り置いてあった。

 発酵に使うキャンバス地を持っていなかったのでそれを購入した。今度試してみよう。

 

手作り感について考えたが、うまくいかなかった。

 パンは買えばいいと思う。

 そう、パンはわざわざ自分で作らなくてもその辺の店で手軽に買うことができる。たとえ非効率であってもパンを作ってしまう理由は何か?

 

 人間は効率的に生きるために、他人を信頼しているのである。

 例えば、このブログを書いているパソコンは自分で作ることができない。

 このパソコンを動かしている部品がそれぞれどのような理屈で動作し、総合的な機能にどう影響するのかも僕は知らない。

 スマホや車だってそうだ。

 たとえそれらがブラックボックスだとしても、その表面に現れる物理現象が自分にとって有用だと判断するから僕らはそれらを使う。

 食料に関してもそうなのである。

 僕たちは食糧生産のすべてに関わり、また監視することができるほど暇じゃない。近年は食品のトレーサビリティが話題に上がることも多いが、それでもやはり限界がある。

 そもそも食品は膨大な数の食材の集まりであるし、その生産者ないしは製造者である個人もしくは法人をどう信頼するかということもまた難しい問題なのだ。

 現実として、多くの人はコンビニで買ったパンを構成しているたんぱく質がどこから来たものなのかを知らなくてもそのパンを食べる。

 この場合、僕たちはコンビニを信頼することになる。

 コンビニという情報のボトルネックを作ることによって安心感が生じるのだ。

 あらゆる製品の信頼性について信頼の関門を作ることによって、僕たちは安心感の中で自分の生活や仕事に集中することができる。

 知らなくてもよいことは知らなくてもよい。

 効率的に生きるとはこういうことだ。

 

 ただ、人間の好奇心はやはり厄介で、あるものをあるがままに享受するのみでは満足いかない瞬間があるのである。

 人間の最大の武器の一つは知識の蓄積とその伝承であるとは思うのだが、知識として知っているだけでは安心できない時もある。できるなら経験も欲しいと思ってしまうのだ。

 もちろん、人間には想像力という便利な機能が備わっている。これは中々強力な機能で、やりようによっては行ったことも無い海外の公園を散歩することもできるし、もしくは現実には存在しない場所すら歩くことができる。その機能を使えば知識から経験を生み出すこともできるのだが、残念ながら僕はそこまで賢くない。

 経験によって習得できることがあるならば、できる限り取り入れていきたいのである。

 

 では、僕たちは経験から何を得ているのかという話になるわけだが、話が長くなってしまったのでとりあえずここまでで終わる。続きはいつかの日記に書くかもしれない。

 結局パンを手作りすることの理由は説明することができなかったが、結局は手作りの成果物との距離感によって達成感を得たいということなのである。

 今日はその達成感の正体について考えようとしたのだが、うまくいかなかった。

 

早速パンを焼いてみる

 今日買ってきた食材を用いて、さっそくフランスパンを焼いてみる。

 新しい小麦粉で生地をこねてみたのだが、日清のカメリヤよりも粘り気があるように思う。いや、それともモルトの効果なのか?

 苦戦はしたが、何とか焼成にこぎつけた。

 

 結果、いろいろ改善点はあるが中々うまくいった。

 

corvuscorax

 

何もない素晴らしい一日だった

 4月16日

 今日のような特別何もない日はそれ自体が娯楽になりうる。

 仕事・趣味・家事・その他に日々奔走する忙しい現代人にとって、特別何もない日というのはある意味贅沢なものであると言えるだろう。

 仕事も無い。食材も切らしていない。欲しいもの、やってみたいことも無い。つまり今日は外出する必要が無い。

 こうゆう日はかえって疲れる。何かやることがあった方が人間は活き活きと過ごせるものなのだ。

 普段から比較的暇している人間である僕であっても、ここまでやることが無い日は暇疲れしてしまう。

 ちゃらんぽらんな人間ではあるが、僕も一介の現代人なのだなと感じる。

 

掃除

 「勉強しているといつの間にか掃除している」というあるある話に代表されるようにやることがなくなった人間(というよりは、何かをせねばならなくなった人間)は、まず掃除を始める傾向があると僕は思う。

 掃除はなんとなく褒められる行動であるから、暇であることの罪悪感を打ち消すのに都合がよいのだろう。

 現実逃避でありながら責められずらい、言い訳づくりにちょうど良いのである。

 

 無論、暇で仕方のない僕の一日は掃除から始まったのであった。

 まずは飼い鳥を鳥屋部へ放鳥し、ケージを清掃する。先週洗ったばかりだからあまり汚れていなかった。この機会にと思い、新しく購入した止まり木を設置してみたが、ビビり散らかしてけがをされても困るのでやめた。

 

 その後、リビングにしている和室を整理・清掃した。

 今年はもう炬燵のお世話にならないだろう。カバーとカーペットを回収し、でっかいカゴにぶち込む。

 炬燵の旬はいつからいつまでなんだろう?

 おそらく我が家の炬燵は比較的長期間リビングに設置されている方だと思うが、相場はどれくらいなのだろう?

 

 続き、寝室を清掃する。

 布団・枕カバーを取り外しカゴへ。これらは今日の夜、コインランドリーで洗濯することにした。

 

 一通り清掃が終了したので鳥をケージに戻そうとしたのだが、今日はやけに渋る。その目は「どうせ暇なんだったらもっと放鳥しろ」と訴えているように見えたのでもうしばらく放鳥することにした。

 

今日が終わる 

 夕方、なんとなくベーコンエピを作った。うまい。

 あっという間に今日が終わろうとしている。

 

corvuscorax

 

コンビニで買うだけが肉まんじゃない。

 本日4月15日。もう四月が半分終わる。

 

 昨日今日と花粉が勢いを増しているように感じる。

 アレルギー体質である僕は基本的に年中鼻が終わっているのだが、特にここ数日間僕の両鼻の孔からは絶え間なく透明で粘着質な液体が湧き出る。

 もしこれが原油だったらなぁ。

 億万とはいかなくとも長者にはなれるのではないか?

 いつの日か、僕の鼻水が資源として脚光を浴びることを夢見て今日も鼻をかむ。

 

肉まん

 コンビニと言えば何か?

 むろん、それは肉まんである。

 日本に住むたいていの人が肉まんを食べたいと思ったときにはコンビニで買うか、スーパー等で売っているヤマザキの肉まんを電子レンジで温めるものである。

 加えてこの国の都市に立地するスーパーやコンビニは空間的に高密度であり、かつ年中無休であったり24時間営業している店舗もあるなど時間的にも高密度な存在であり、店舗へのアクセスに悩まされることは少ない。(もちろん種々の事情によってはその限りではないわけだが。)

 

 さらに、忙しい現代人にとって肉まんのような絶妙に手のかかる料理は敬遠の対象だ。

 近所のコンビニで簡単に買うことのできる肉まんをわざわざ時間をかけて作るくらいなら、その時間を別のことに充てたくなるのも道理である。

 要するに、ご近所事情が相当特殊でない限り、肉まんを食べるためのルートはこの二つに絞られるのである。

 

(焼く・煮る・茹でる・揚げる・和える・漬ける・レンチンするetc、人間の生み出した調理方法は様々だが、「蒸す」ことのコストについてなんとなく高く感じるのは僕だけだろうか? 今でこそレンジ調理可能な蒸し器が広く出回っているため、蒸し温野菜などは気軽に作ることができるが、コンロ上で使用するいわゆる蒸し器や蒸籠を使うことはかなーり面倒くさい。一人暮らしの人間でフライパンを持っている者はそれなりの数いるとして、蒸し器や蒸籠を持っている人間は果たしてどれくらいいるだろう?)

バーミヤンなどの中華料理チェーンに於いて、小籠包や焼売などの点心は蒸籠に入れて提供されるが、そのことになんとなくワクワクする人間はきっと多いはずだ。普通の白い平皿に乗せられて提供されるよりも、蒸籠に入って提供された方がはるかにおいしそうに見えるのである。このワクワク感こそ蒸籠等の蒸し料理用器具が非一般的であることの象徴なのである。)

(そう思ったのだが、ここで一つ反例を思いついてしまう。では「スキレット」はどうなのだ? 前述した通り、「焼く」は「蒸す」と比較してはるかに一般的であると仮定した調理方法だ。仮に蒸籠で点心が提供されるワクワク感が「蒸す」ことの非一般性に起因しているとするならば、スキレットでハンバーグが提供されるのは「焼く」ことの非一般性に起因しているということになってしまう。)

(こうなると話は振り出しに戻る。いったいどこが間違っていたのか。「焼く」が実は非一般的である場合、もしくは「蒸す」が実は一般的である場合はスキレットの例を説明できる。しかし僕が今主張したいのは「蒸す」が非一般的調理方法であるということである。その前提を崩すわけにはいかない。おそらく例が適切ではなかったのだ。おそらく「蒸籠で焼売が提供されるワクワク感」は蒸すことの特別感が原因ではなく、調理からの距離感の問題なのだ。)

(そう考えればスキレットについても説明が付く。皿に盛られて提供されることとスキレットで提供されることの違いは、その料理が完成しているか否かであると考えられる。「皿に盛る」とは加熱などの意図的調理を止めて料理を固定化する工程だ。だとすると、調理場で完成した料理はウエイターによって席に運ばれるまでの間の時間は劣化であると読み替えることも可能である。その点スキレットは、言うならば調理中の段階で配膳し、食事者の目の前で完成する⦅現在進行形で完成し続ける⦆提供方法だということができる。旅館などで提供される、固形燃料に火をつけ席で加熱するタイプのメニューなどこの手の提供方法は「出来立て感」の最高峰を目指したものなのだと捉えることもできる。蒸籠提供はその時点で蒸し続けているわけではないが、皿に盛るよりも調理との連続性を損なわずに済むのではないか?)

(もちろん、以上は僕の直観であり根拠は一切ない。結局、すべて蛇足になってしまった。)

 

 ただ今日の僕は違った。

 第三の手段「メイド・イン・僕」を試してみようという気になったのである。

 早速やってみよう。

蒸籠バージョン。
手持ちの蒸籠が小さいため、肉まんが壁にくっついてしまった。
一気に二つ蒸すことに無理があったのだ。

鍋バージョン。
こちらはスペースにゆとりがあったため変形は無し。

 中なかうまくできたのではないか?

 調理時間は発酵を含めて3時間ほどだった。

 肉だねには豚挽き肉200g・長ネギ1本・その他調味料を使用。皮には薄力粉160g・強力粉40g・イースト5g・塩・砂糖を使用。

 包むのが最難関で、コンビニで売っている物ように綺麗な結び目を作ることはできなかった。しかし、以前作った時に比べると格段にレベルアップしている実感があった。今回は皮の底から液漏れしなかったのだ。

 以前肉まんを作ってみた時は皮をのばすときに薄くしすぎてしまい、肉だねのエキスが皮を貫通して外に出てきてしまっていたのだ。今回作成した肉まんは一部茶色くなっていたり、頭が開いてしまったりしたものはあるものの、皮が破れてしまっている物は一つもなかった。

 こうして新たな料理ができるようになると嬉しいものである。

 

 肉まんは家でも作れる。

 そのことがわかっただけで、今日は非常に有意義な一日だったと言える。

 

corvuscorax

 

帰ってきた

帰宅

 出先から帰宅した。

 なかなか疲れる旅だったが、終えてみればやはり楽しいものである。

 

 そういえば、昨日の道中に立ち寄ったSAのトイレを出ようとしたとき、初代の仮面ライダーのコスプレ?をした人とすれ違ったので度肝をぬかれた。

 彼はいったいどこへ向かったのだろうか。

 

腰痛に悩まされる

 僕は中学時代からずっと腰痛に悩まされている。

 以前、腰痛が悪化しすぎて歩けなくなった時に医者にも見てもらったことがあるのだが「体が硬いね」と言われただけで診察は終わってしまった。

 

 はたして、体が硬いだけでこんなに痛くなるものなのだろうか?

 その時の僕は杖をつかねば歩けぬほどの痛みを感じていたのだが、柔軟をサボった罰とはこんなにも重いものなのか?

 それとも僕が痛みに尋常じゃないくらい弱いだけで、その辺を歩いている人たちはこれ以上の痛みを感じつつも涼しい顔をしているのか?

 その日、僕は初めて西洋医学に疑問を持った。

 

 当時の僕は、ひとまず医者に言われた通り柔軟を試してみた。

 足先に手が付くくらいにはやわらかくなったのだが、結局今に至るまで腰痛は改善されず、長時間椅子に座ることはできない。

 医者でもメンタリストでも占い師でも誰でもいいから、この腰痛を治してほしい。

 

湯葉

 買ってきた湯葉がおいしすぎる。

 ただ、確かにこの湯葉はおいしいのだが、僕は湯葉について何一つ知らないことに気が付く。

「実は両生類の皮なんです!」

 なんて誰かから言われたらどうしよう。

 多分豆腐とか作るときに水面にできる膜とかなんじゃないかとふんでいるのだが、実際に調べたことも見たことも無いから何とも言えない。

 今のところ、湯葉について僕が知っている事柄は以下の通りである。

1.豆腐屋さんが売っていることが多いこと。

2.おいしいこと。

3.コロコロコミックで連載していた「コロッケ」で強キャラだったこと。(コロッケは一瞬しか読んでいないから、最終的にユバがどうゆうキャラ付けになったのかは知らない。空前絶後におぼろげな記憶ではあるが、リゾットと異空間で戦っているシーンを読んだことがある気がする。多分ね。)

 

 少し調べてみたが、湯葉(湯波)は豆乳を加熱した際、表面にできる薄い膜をすくい上げたものらしい。

 牛乳をあっためた時に表面にできる膜の豆乳バージョンということだ。

 

 本日は疲れたのでこの辺で。

 

corvuscorax