4月25日
暑い。
典型的な三寒四温の春の天気傾向であるが、こう気温がぶれると体調を崩してしまわないか不安になる。
暑がりな上に昔から風邪っぴきだった僕はこの時期が最も苦手だ(体調的に)。
暖かさに惑わされて薄着しようものならば、その後に控える肌寒さに駆りとられることになる。
さらに、花粉症の季節も重なる為に自分が感冒であるかどうかの判断に迷い、対処に遅れが生じやすい。
困った季節である。
駐車場
今日は夕方、薬局に買い物へ行った。
支度を済ませ車に乗ろうとしたとき、昨日の雨のおかげだろうか、車が少しきれいになっていることに気が付く。
少しうれしかった。
それはともかくとして、今借りている駐車場が狭い。
常識外れに狭いわけではないが、駐車するときに少し緊張するくらいには狭い。
まぁこの世の駐車場の7割は狭く感じるものなので全く文句は無いのだが、最近ある問題が発生している。
隣の枠を契約している車が変わったのである。
以前まで(今年2月まで)隣にとまっていた車は軽自動車だったのだが、この3月からはでっかいミニバンが止まっている。
これは困った。まさかこんなでかい車が隣にくるなんて。
三重や埼玉の田舎でのびのび運転をしてきた僕にとって、日常的に使用する駐車場がこれほど窮屈だったことは無い。
入出庫のたびに目の前のアパートの外壁と隣のミニバンに挟まれる緊張感を味わう日々を過ごしている。
これはまさしく、固定資産のサンドウィッチなのである。
説明しようとすること
駐車場の図示すれば一発で伝わるとは思ったが、ここではしなかった。
せっかく日記という文字主体の媒体を利用しているのだ。
多少回りくどくても、文字による表現をあきらめてしまうのはもったいないと考えた。
図示は後からでもできる。
逆に、文字のみで表現された世界をイメージすることは図示した後ではできない。
答えを知ったうえで文字から想起されるイメージは、無垢な状態からうみだされるそれとは異なるものになってしまうからだ。
言葉は想像力を働かせるという点で強いが、説明力や厳密さについてはかなり弱いように思う。
僕は本を読むことがそれなりに好きだし、文を書くことも多分好きだ。
だからこそ自分自身の表現力の限界は勿論のこと、言葉そのものが持つ説明力の限界を肌で感じておくべきだと思う。(もしくは、自分自身の理解力の限界を。)
そのために何をすべきかといえば、それは勿論言葉を使用することなのである。
よく読み、よく書く。
他者の書いた文から想像される世界の歪みや、自分の世界を表現しようとしたときに立ちはだかる大きな壁を直視するのだ。
そうして言葉の限界が見えてきたとき、はじめて見える世界があるのだと僕は信じている。
言葉を知ることは、言葉の外側に広がる世界を知ることなのだ。
corvuscorax