渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

暑いかと思ったら

 今日の最高気温は28℃と聞いて「うわぁ、また暑いの?」と昨日は思っていたが、ふたを開けてみれば全然暑くない。

 しっかり空は晴れていたが、なんだか日差しが弱かったような気がする。太陽も疲れちゃったってこと?南中高度が下がって日照の最大値みたいのが落ちたのかな?

 なんにせよ今日は過ごしやすかった。空も高く、いかにもな秋晴れの気持ちよさが包み込む。どうせ死すならこんな日がいいなと思った。

 

 

 ふと思ったことがあって。この世界で幸せに死を迎えることができる(できた)人間はどれくらいいるのだろう?

 死は不思議だ。別に現象として全く珍しいものでもないし、直観に反するわけでもない。なんとなく遠くに感じもするが、ついて離れない。近くの木の裏から覗かれているような感覚がある。死を意識しないで済む日というのは珍しい。少なくともここ15年間は毎日意識しているのではないか?

 直観に反しないというのも不思議だ。僕らの頭は死ぬことに対する拒否感を保持しつつも、その根っこの部分では死を完全に受け入れているのではないかという不気味さ。

 僕という存在は死を否定するが。僕自身は死を受け入れている。たまに「あ、今なら死ねるかも」という瞬間がふいに訪れるのも怖い。自分の中に僕が知らない部分が存在することに対する恐怖を感じざるをえない。

 死は二重の恐怖を僕らに与える。一つはただ自己が失われるという圧倒的な現実として。一つは議題として不滅かつ普遍的であること、つまり、いくら考えても答えが出るはずのない問題であるという無限性も怖い。

 はぁ怖い怖い。

 22歳まではこんなこと思いもしなかった。死が遠くにありすぎて。死から目を背けるに十分なほどエネルギーに満ちていて。でも、周りの人たちが社会に出て、働いて、年を取っていく。そんな当たり前の現象を直視したときに途端に死は間近に迫ってきた。

 自分と別の道を歩み、離れていく友人たちの背中を見て思う。違う人生に思いを巡らせたときに、めぐることのできる範囲は途轍もな狭いということ。その狭さ、他者の無限性の中には彼らが急にいなくなる可能性も含まれる。仲間を通して縮小された世界を見ていると無敵感が芽生えてくるが、それは一時の勘違いだったというわけだ。

 そのスター状態が終わり、世界を見るレンズを失ったときに初めて気が付く恐怖心がある。なんとなく同質の環境に身を置いている間は決して気が付くことはないこの違和感。自分の知らないところで死が進行しているという現実がその時に初めて分かったのだと思う。

 

 思いつくままに日記を書いている。これでいいのだと思う。

 読みずらい文章になってしまうけれど、この散らばりが僕の頭の中身なのだ。少なくとも僕がいつかこれを見返したとき何かを思い出すことができるに違いない。

 

corvuscorax

 

 

こんな機能があったのか。

そういえばネットで見かけるブログ記事には見出しが使われているなぁなんて思っていた。そうか、こうやれば見出しが使えるのか。気が向いたら使ってみようかな。