5月15日
最近実家に行ってないな。
そういえば最後に帰ったのは5月2日だ。今年に入ってからは週一は帰っていたから、2週間と言えどかなり間を空けてしまったように感じる。
犬どもは(まぁ元気だろうが)元気にしているだろうか?
今週末が休みなので、久々に帰ってみようかしら?
そういえばこの日記について、僕の中で決定しているが宣言していないことがある。
この日記の存在が知人に露見したことが判明した瞬間、僕はこのブログのすべてを消去すると決めている。
日記を書いていることがバレてしまえば、当然その人物から見た僕は「この日記を書いている人間」という前提が付与された上で認識されることになるわけである。
別にその段階では問題ないのだが、仮にそのことを僕が知った場合、僕はその人のことを「僕がこの日記を書いていることを知っている人間」と認識することになる。
これがかなり大きな問題なのだ。
発覚前はそこに存在するにもかかわらず全く問題にならないのに、見えてしまった瞬間に問題になる。例えるなら”ごきかぶり”と似たような恐怖感や嫌悪感があるのである。(「人間に対して何て言い草だ!」と思うかもしれないが、あくまで例えなので許してほしい。)
もしも知人がこの日記の存在を知り、またその書き手が僕であると発覚し、挙句にその旨を僕に伝えられてしまったら。
背筋が凍る。
気分はコナンに詰め寄られる犯人とか、成歩堂君に追いつめられる証人とかに近いんじゃないかなと勝手に思っている。
おそらく吐きそうになるし、大なり小なり失禁もありうるだろう。
視線
アイコンタクトという言葉に代表されるように、人が他人を見るときには得てしてその視線に意味を載せるものなのである。
勿論他人の視線を感じたとしてもそれがただの自意識過剰で、勝手に自分が相手の視線に入り込んでしまう事も多々あるだろうが、それは確率の問題である。そのような事故による被視線感(他人から自分に視線が向いていると感じること。今命名。)はあるとしても、実際に意思が載った視線が無くなるわけではない。
被視線感の感度や正確性には個体差があるだろうが、感じた視線の中には確かに自分へ向かってくる視線が存在するのである。
そのような被視線感は僕に一定の処理を要求する。
その視線に込められた暗号を解読し、その真意を読み取る必要があるのである。
この処理がなかなか辛いもので、まず相手の視線に意図が載っているかどうかを判定し、もし載っているならばその意図を読み解いて文に変換する必要がある。そこからその言葉が示す考えを推測し、必要な行動を選択しなければならない。
そして行動後には効果判定を行う必要もある。場合によってはこの判定も暗黙で行われるため、その際にはさらに意図の解読をする必要がある。
コミュニケーション
コミュニケーションには限度がある。
ここ最近の自分の中で通説になりつつある主張である。
そしてもちろんアイコンタクトによる伝達には限度があるし、何なら言葉よりもその基盤が曖昧かつ手法が体系化されていないがために、その伝達可能性は当事者同士の関係性ごとに異なる。
もちろん、親しい中でこそ通じるアイコンタクトは初対面の人間に通用しないのだ。
そして親しさというパラメータはその関係の主体それぞれに独立して存在するものだ。自分が親友と思っていても相手は友達とすら思っていないかもしれない。
それならいっそ、あらゆる場面で言葉による意思表示を行うべきではないかと思う。
確かに言葉によるコミュニケーションも全くと言っていいほど完成されておらず、その正確性はとても直視できるようなものではないが、それでも何も伝えないよりは遥かに情報共有が捗る。
言葉のいいところとして独立性と、それに伴う保存性を挙げたい。
言葉は使用者に依存しない。
というのは、言葉は発した人間から離れたとしてもその内容が伝わるのだ。
こうしてこの日記を読む人に僕の顔は想像できないはずだが、それでも読み手の脳内で僕が書き出した日本語がリピートされることは最低限保証される。日記の紙面に僕は存在できないが、それでも誰かに日記という情報が伝わっているのである。
もちろん文字情報の源泉として人間は必要だが、言葉になった情報に人間は必要ない。何か情報を伝えようとしたとき、つまり相手に想像力の行使を要請するときに、言葉は単独でヒトの想像の素となることが出来るのだ。
そして情報としての価値を担保するために生身の人間を必要としない言葉というツールは、人間の寿命を超えた保存性を持つ。
もちろん、古語と現代語が大きく異なる事を考えれば言葉そのものにも寿命が存在することは明らかだが、それでも「訳」という形で言葉は子孫を残すことが出来る。その際に細かなニュアンスは失われてしまうかもしれないが、それでもある程度は情報量を保ったまま後世へ伝わることが出来るのだ。
先には「保存性」と表現したが、どちらかというと「生存性」が強いという事なのかもしれない。言葉には「訳」によって時間や空間(言語の地域差、言語上の距離ともいえる。たとえば英語と日本語は多くの点で異なるが、互いに変換することができるという事。)を乗り越えるしぶとい一面がある。
多くの洋書が日本語化(ここまで熱心に外国語を母語化する国は珍しいという話も聞くが本当だろうか?)され、多くの古典が現代まで残り広く知られている状況をみれば一目瞭然だ。
言葉の保存性を確認できる事象は、なにも上で示したような壮大なスケールだけの話ではない。さらに時間的に短い状況でもその効果を観測できる。
例えば、もっと身近な問題である「物忘れ」にも言葉の保存性は活きてくることは多くの人が知るところだ。
言葉は使用者に依存せず、保存がきく。
アイコンタクトのようにそれぞれの関係性に依存せず、またあとから反芻することが出来る。
コミュニケーションにこれを使わない手は無いだろうに。
もちろん、言葉だけですべてが解決するわけではないことも確かだ。
僕だってできることならこの日記上に言葉以外の追加情報を残したい。その方が誤解が少ないと想像できるからだ。
かといって、言葉による情報を0にしてしまうのはいかがなものか。
ノンバーバルコミュニケーションの重要性が取りざたされて久しいが、決して言葉によるコミュニケーションが不要という意味ではないはずだ。
ノンバーバルコミュニケーションを重視することは言語によるコミュニケーションに、声の抑揚・大小や身振り手振りを織り交ぜることによって誤解を防ぐという目的があってこそだ。言語を核とし、それ以外の情報による複合的な補強が求められるという事であって、まさか言語を全廃して身振りだけで伝えることを是としているわけではないだろう。
もちろん言葉なしに伝わりあう人間同士の関係は非常にエモいというか、よくわからない美しさのようなものがあるが、そのようなテレパシーに近い現象はファンタジーの中だけの話だ。現実には、どんなに深い仲でも、どんな手法でコミュニケーションを図ったとしても誤解はある。
”親しき中にも礼儀あり”というが、これをもじって言わせてもらえば”親しき中にも言葉あり”という事だ。自信の思う関係性のみに依存したノンバーバルコミュニケーションは、相手の感受性への暴力と言えるだろう。
「言葉じゃなくて態度で示そう」そんなスローガンをよく耳にするが、それでは不十分だ。
「言葉を尽くし、態度で示そう」
そう改めてはいかがだろう?
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