今日の昼、松屋で牛丼を注文して席で待っている際「僕はなぜか木曜日に悪い印象を抱いていない。」ということに気が付いた。
なぜか金曜日か嫌いなことと対照的である。
なぜそうであるかを牛丼を食べながら考える。
印象を生む原因は過去であるはず、何かの出来事、もしくは習慣がその印象を産んだはずだ。
そして曜日感覚が終了している僕が曜日について印象を生み出すとすれば、曜日を意識せざるを得なかった小・中・高いずれかの学校生活の中で起きた事柄であるはずである。
何かあったかしら?
今日も思い出を漁る。
1.時間割説
詳しく思い出すことは能わなかったが、ひょっとすると12年を平均した木曜日の時間割に好印象を抱いていた可能性がある。
たまたま好きな教科が木曜日に固まっている傾向があり、その積み重ねが僕の中に「木曜日は楽→いい曜日」という式を生成したのではないか?ということである。
例えば小学生時代において、月曜日に国語・社会・道徳・算数・理科・国語、木曜日に体育・算数・総合・図工・家庭・家庭のような時間割が組まれていたのだとすれば、僕は相対的にに木曜日が好きになるはずだ。(ちなみに僕は小学生のころ、国語が一番嫌いでした。)
仮に小中高通じて木曜日の時間割が自分にとって平易である傾向があったとしたら、現在木曜日に抱く苦しゅうなさにも納得がいく。
2.習い事説
僕は小学生当時、複数の習い事に通っていた。ピアノ・体操・水泳・テニス・ソフトボール諸々。もちろんそれらは各曜日に割り振られ、学校終わりにそれぞれの教室へ通っていたわけである。
例えば、僕が土日に好印象を持っていないことについては、明らかにソフトボールが原因である。(これについては思うところがあるので、また後日単独で日記にしようと思う。)
ひょっとすると、木曜日には習い事が入っていなかったのかもしれない。
であれば、小学生にしては忙しい生活の中で木曜日はオアシスのように感じられたはずだ。
3.イメージ説
印象の原因に「イメージ」を挙げるなど言語道断だが、そもそも曜日としての「木」曜日のイメージに対する好印象ではなく、「木火土金水」について「木」のイメージが良かっただけという説もある。
要するに「ポケモンのタイプの中で何タイプが好き?」みたいなことである。
そのような印象を形作るものはおそらく思い出すことの能わない記憶や、主観的に意識することが難しいちょっとした思考の癖、自分のコントロール外の身体的条件反射などの意識に上がってこないものだ。
だとすれば、「なぜ”木火土金水”の中で”木”の印象が良いのか?」はかなり複雑な過程を経て自身の意識の表層へ浮上してきているはずだ。
牛丼を食べることに夢中な今、そのようなスパゲッティについて考えを巡らせる体力は無い。
気温差に中てられてしまいます
夜、仕事先から帰宅しようと外に出て驚く。
昼はあんなに暖かかったではないか。今年の夏は意地が悪かったが、どうやら冬も意地が悪そうだ。
このような気候極端化は人間の活動に起因しているとされている。
暑さに悶え、寒さに震えるだけのちっぽけな存在である人間ではあるが、その集合はプラネタリースケールの影響を与えるほどに大きな力を持っているのだなぁ。
凄すぎるを通り越して怖いぞ人類。
corvuscorax