今週のお題「体調が悪いときの過ごし方」
ようやくお題にたどり着く。
今週はやる気不足だったり、忙しかったり、他のネタに押しつぶされたりでなかなかお題を消化することができなかったが、いよいよ木曜日になってお題に取り組むことができた。
先週「お題出たら2・3日以内に消化します」と言っていたのにもかかわらずこの体たらくである。
体調が悪い時の過ごし方について(箇条書き)
・体調が悪い。
つまりは健康状態から離れているということだが、それについては思うことがある。
僕は年を重ねるにつれて”健康”の示すレンジがどんどん広がっている実感がある。加齢に伴う身体機能の減衰に対応して、自分の中の健康の下限が引き下げられていくように感じるのだ。
それに伴い「体調が悪い」が示す範囲が狭まっているので、大人になってからは「体調が悪い」と表現できる日はそうそう来なくなった。
ちょっと頭が痛いくらいよくあることだし、一昨年発症した腰痛から解放されることはない。少年期に体調が悪いに含まれていた身体の状況がどんどん”健康”に飲み込まれていく。
・この見出しの冒頭に「体調が悪い=健康ではない」と書いているが、それは正確ではないのかもしれない。
よくよく考えてみれば”不健康”と”体調が悪い”のそれぞれから受ける印象や、それぞれが示す質感は全く異なることに今更気が付いた。
これら2語を自分なりに区別するならば以下の通りになる。
健康か否かについては絶対的指標のものに決定される身体の状況であるが、体調が悪いか否かというのは普段自覚している体調から逸脱している状況を示すように思われる。
健康は客観的絶対軸で語られる概念で、体調は主観的相対軸で語られる概念なのだ。
・体調が悪い時にどう過ごすべきかについては、いまだに僕の中で定説ができていない。ゆっくり寝るしか無いのでは?
それしか思いつかないあたり、どうやら僕は健康についてのオリジナリティが欠けているらしい。
健康について
何を”健康”と呼ぶのか、僕にとっての基準を考えてみた。
それは自分は健康であると信じること、医者に健康だと言われることを信用すること。
それこそが健康の条件だ。
人間は、”科学”として説明されると不自然なほど素直に納得することができる。医学を含む科学が持つ強力な説得力は、人々にとって充分権威たりえるのだろう。
ただしそれは全能の神から与えられた知識・技術ではなく、あくまで人が歴史のなかで積み上げてきた体系であるということを忘れてはいけない。どんなに権威ある人物であっても、ヒトの言うことが絶対ということはあり得ないのだ。
これは例え話だが、目の前にスワヒリ語を話す人間がいたとしよう。
その人間が見事なスワヒリ語を披露した。では、僕らはその人物が話すスワヒリ語の良し悪しを判定することができるか?
否であろう。
僕達はスワヒリ語話者ではないのでその良し悪しを判定できないはずだ。
もっと言えば、その人が本当にスワヒリ語を喋っているのかどうかすら判定することができない。人間は知らないことの正誤を判定することができないのだ。
では科学者は科学を知っているか?
これも実は否であるといえる。
ご存じの通り、科学とは地道な実験や観察等によって未知を明らかにする努力である。「人間は知らないことの正誤を判定できない」と言ったが、もちろん未知についても正誤を判定することはできない。科学で判定できるのは「現状これが一番正しそうである」ということだけだ。
つまり、どれほど権威ある科学者の言うことであっても「現状の科学で最も信頼のおける情報」であるにとどまる。
そもそも権威は人が人に与えるものなのだから、権威が示すことは「真理」ではなく「人間からの信用」なのである。
つまるところ権威とは、多数決の手間を省くための装置に過ぎない。(要は意思決定の過程を数段スキップすることができるということ。民主主義においては多数決を省くことが該当すると考えた。)
健康を決定する何もかもが、信用によって成り立っている。
であれば、やはり僕にとって「健康」とは「信じること」に他ならないのである。
何を言っているんだか
さんざんのたまっておいてなんだが、僕は別に科学懐疑論者ではない。
むしろ好きな方だ。(この日記上でもたびたび生物学もどきに触れているからお分かりだろう。ちなみに僕の趣味の一つには高校物理の力学の問題を解くことも含まれる。)
ただ、やはり科学だからと言ってすべて信じることの危険性は経験からもよくわかることである。
思うに、科学は”人間の弱さ”に対して弱い。
あたりまえだが、科学は一つの理想でしかないのであって、理想通りに動かない”人間という存在”は科学に対して大きなカオスを生むのだ。人為的ミス=ヒューマンエラーという言葉が広く世の中で通用することが、人間の存在が科学のアキレス腱であることを如実に示している。
例えば、科学を騙ること。
科学の説得力に寄生する人間は多い。健康にまつわる誇大広告は枚挙に暇がない。
例えば、科学の扱い方を誤ること。
ダイナマイトを発明したノーベルが、自身の発明を悔いることになったように。
例えば、科学そのものが間違うこと。
科学者も人間である以上、カオスに加担することからは逃れられない。近年においても、あれほど膨大に積み上げられ数多くの実績を残したニュートン力学は量子論に敗北した。(量子論を勝者としたレフェリーが人間である以上は、これもはっきりとは言えないが。)
結局のところ、科学を信じるかどうかは各個人に委ねられている。科学を一定程度信用していないと生きることが難しい世界であるから、僕らは科学を信じて生活せざるをえない。
その信じ方に誤謬があった場合、科学は人間に牙をむく。
科学を騙り人を騙したり、科学を制御できなかったり。
人間の弱い部分が科学に暴力を与え、程度は様々だが数多の被害を人間に与える。
故に個々人が科学に対してどのような姿勢で向き合うのか、しっかり考えておくべきことだと思う。
ココスの夜
ココスはいいですね。
ドリンクバーの充実度も、料理のレパートリーも、価格帯も。ココスを構成するすべてが僕のニーズをとらえて離さない。というかポテトが段違いにおいしい。
カリカリポテト。(僕的には)ファミレス界最強ポテトである。
流石ゼンショーホールディングス。ファミレス業界ナンバー1なだけある。
一時期メニューから消えた時期には激しく落ち込んだものだが、いつの間にか復活してくれて本当にうれしい。
あまり食べすぎるとまた体重に響くので、本日はミニサイズで我慢した。早く体重を減らして海賊のように豪勢なココスライフを満喫したいものである。
corvuscorax