毎日日記を書いていると嫌でも自分の文章の癖に気が付かされる。
癖というものは厄介で、自身の気が付かぬうちに生じたのち、どんどん自分と同化していく。やがてそれは自分の中に「当たり前」を形成してより深い部分へ癒着し、自力での検出をますます難しくしていく。
これについては多くの人が悩まされているだろう。僕もその一人だ。
もう一つ、日記を書き初めて気が付いたことがある。「さて」の便利さだ。
話し言葉において使用頻度はそれほど高くないように思えるが、ことブログとなるとついつい多用してしまう接続詞であるように見える。これについて、少し思うことがあった。
自身の癖を調べる
自分自身の一部と化した「癖」は自意識の外から僕らをコントロールするので、その存在を意識することは難しく、奴らは巧みに僕の視線から逃れる。それをどう意識すればよいのか?
癖は上述の通り自分で気が付くことが難しいもので、自分が何かズレていると気がつくためには他者と比較するしか道はないだろう。雛形たる他者との比較によって、癖はあぶりだすことができるのだ。(よくよく考えてみれば、他者が存在しないならば癖も存在しないのだから当たり前である。)
その点文章の場合、後から自分の文を読み返すことも、他人の文章と見比べることも容易だ。書き出された瞬間に客観的なものとなる「文章」は、癖の検証しやすさという点で他の技能より優れていると言えるのではないか?
僕が思いついた検証方法はとても簡単である。
他人の書いた文章を読めばよいのだ。
他人の書いた文から受け取る違和感は、そのまま読み手もしくは書き手の作文上の癖を示す。それを文法に照らし合わせて検証すれば、それが自分の癖であるかどうかがわかるのではなかろうか?
もちろんこれだけですべての癖が治るわけではなかろうが、少なくとも脳のストレッチにはなっていると感じる。
他人の言葉に触れることによって、少しずつ変わっていく自分の言葉を観測することができる。
日記とは良いものである。
「さて」
「さて」はそれまでの会話の主題を断ち切り、新たな話題へ移行させる接続詞である。別の表現をするならば、会話や文章のリセットボタンといったところか?
似た接続詞に「ところで」があるが、それと比較すると「さて」の強制力が際立つ。
「ところで」に続く文章はそれ以前の話題の記憶を引き継いで別の話題へ移るが、「さて」に続く文章は記憶を引き継ぐとは限らない。「ところで」が文脈を引き継いだ話題転換であるのに対し、「さて」の後に提供される話題はそれ以前の文脈に依存しないのだ。
要は話題リセットの強制力が強い「さて」は、会話を”0”から始めるための文章上の記号として使用できる。「さて」はそれ以前をすべて無に帰すため、それ以前の文(または空白)の内容に全く依存しない使用法が可能なのだ。つまり、いつどこで使ってもよい。
さらに言えば「ところで」は相手への問いかけのような印象を受けるのに対し、「さて」は話題を他者に提示する印象を受ける。この性質には自身が提供する話題に注目を集める効果があり、適切に使用することができれば読み手の関心をそれまでの文から新たな話題へと引きこむことができる。
こう便利であるからついつい多用してしまいがちになってしまう。できる限り「さて」を多用しないように気を付けていても、結局「見出し」という形で「さて」と同様の強制的な話題転換を行使してしまう。
「さて」がもたらす文章表現上の圧倒的自由は、物書きにとっては麻薬のようなものなのではないか?
その自由の虜になってしまえば最後「さて」の効用を求める欲求は暴力的に自分の中身を駆け巡る。
ちゃんとした構成力を身に着けたいものである。
それでも見出しは便利である
いよいよ自分の中で収拾がつかなくなってきたので”見出し”でぶっちぎった。いやはや便利である。
さて、先ほど「さて」を麻薬呼ばわりしたが、スマホも十分麻薬だ。それでも社会に受け入れられているのは、その効用による利益が不利益を大きく上回っているからだろう。(仮に麻薬に人間の加害性を刺激する効用がなければ、広く社会に受け入れられていたはずだ)
文章についても同じことで、読み手のストレスを最小限に情報を正確に伝える文章こそが良い文章と呼ばれるのだろう。きっと。
そんな文章にあこがれて、今日も明日も日記を書く。
corvuscorax