2023年12月に入ってからまともに更新していなかったこの日記を100+4日ぶりに再開していこうと思う。
最後にこの日記を更新したのは昨年12月の24日。
クリスマスイブに「寝違えて首痛い。」と途方も無くどうでもいいことをつぶやいて僕の日記は冬眠した。(しかも「明日はしっかりめに日記を書く!」とまで言っている。なんだこいつ。)
当初は息巻いて「毎日書きます!」などと言っていた気もするが、僕の継続力は所詮こんなもんである。
結局9月終わりから書き始めて12月頭に更新が止まった。
三日坊主ではなかったが三ヵ月坊主にもなれなかった、足の生えかけた両生類のような存在なのである。
時間とは曖昧なものなのである
約4か月間日記をサボっていた事実に目を向けてみたところ「意外とそんなものか?」という気がしてくるが、「1年の1/3をサボったのか」と思い替えると確かに長い期間サボっていたのだと感じる。
きっと僕は、日記をサボった4か月間という時間の具体的なイメージを掴むことができずにいるのだろう。
直観としてはすぐに過ぎてしまったように感じているが、少し想像力を働かせてみると色々な事柄が詰め込まれた長い期間だったようにも感じ得るのである。
意外と時間なんてそんなもので、あれだけ厳格な顔をしておきながら実際にはかなりあやふやなものなのだろう。
時間について厳格な顔をしていると表現したが、それは人間が時間に対して抱いている(はたまた僕だけが勝手に感じている。)イメージに過ぎないのだ。
その強そうで絶対的なイメージとは裏腹に、かなり繊細な存在であるということなのだろう。「時間を大事に」を芯に据えるスローガンの類はそれを看破したものであり、人間は時間を認識しているからこそ守らねばならぬのである。
よく言われるように、時間とは有限の資源なのである。少なくとも社会活動において無制限に垂れ流してよいものではないし、いつの間にか無為に重なってしまった年齢を鑑みればいやでもそう思う。「いつまでもあると思うな」ということなのだ。
この日記の今後
今後どのように日記を書いていくかということを考えねばならない。
目的は以前と同じく「文を書く習慣づけ」+「タイピング速度維持」=「文章力の筋トレ」のままでいいだろうが、問題は目標である。
また毎日更新することを目標に書いてもよいのだが、また唐突に蒸発して半年更新しないとも限らない。自分自身ほど信用のおけない人物はいないのだ。
目標を立てても守るとは限らない人間との約束事はどうあるべきなのか?
拙い僕の頭では「目標を立てない」ということしか思いつかなかった。毎日更新するかもしれないし、月一更新になってしまうかもしれないが、日記のことは頭に置いておく。今の僕にできることはこのくらいだろう。
結局「好きに書く」ということだが、別に仕事ではなく趣味なのだから好きに書いていいのである。
そう思えば、かなり前向きになれる。
(あくまで「継続」を苦手とする僕にとって毎日何かをすることには苦痛を感じざるをえないという意味である。決して日記を書くことについて後ろ向きであるというわけではない。)
前置きはこのくらいにして、日記をサボっていた休止していた間の出来事を思い出せる限り書こうと思う。
2024年 3か月の歩み
というわけで、2024年1月~3月の間に起きた出来事を思い出せる限り本日の日記に記しておくことにしようと思う。
正直記憶力には自信がないのでそんなに大層なものではないが。
1月21日 iPhoneのカメラが壊れていることに気が付く
衝撃だった。
たまには愛鳥の写真でもと思いカメラを起動したところ画面が波打つ。加えて謎の高速カチカチ音がカメラ付近から鳴っていた。
修理屋さんなどに診てもらったわけではないので何とも言えないが、おそらく手振れ補正機能が暴走しているのではないかと思われる。
とりあえず撮影してみたものの、このざまである。何もかもが二重になってしまっている。
3D映画を眼鏡をかけずに無理やり焦点をずらして観たかのようである。
念のため動画も撮ってみたが、この画像がそのまま波打つような感じだった。
ただ、これはこれで芸術的というか、面白いので修理には出さないことにした。
(そもそも僕は写真を撮らないので、精密な部品であるレンズに気を使いながら持ち歩かねばならないくらいなら、いっそのことカメラ機能を省いた機種が欲しいと常々思っている。僕のようなカメラを使わない人間からすれば、iPhoneの出っ張ったカメラは邪魔以外の何物でもない。)
(いや、よくよく考えたら携帯の機種など碌に調べたことも無い。ひょっとすると知らないでだけで存在するのかもしれない。)
1月28日 気象予報士試験 初回 爆沈
本だけはそれなりに読んだが過去問は解いていなかった為どのような問題が出題されるのかを知らずに受験することになった。
流石、有名な高難度試験である。
当然1か月間の読書程度の勉強量では歯が立つはずもなく、勉強のスカスカさを目の当たりにした。
やったつもりではやはりダメなのだ。
勉めて強いると書いて勉強。個人差はあれど何かしらを犠牲にせねば知識は身につかぬものなのだろう。
12月から1月にかけての読書は蘊蓄や話題の種にはなったが、知には育たなかったということである。
幸い気象そのものはかなり面白いもので、勉強に飽きることは今のところなさそうである。次回、8月は過去問に取り組んでから試験に臨もうと思った。
新たに2冊、気象学の入門書を買い足してやる気満々である。
2月上旬 おいしいイタリアンを食べる
実家に帰った時のこと。
市内にあるイタリアンレストランに行こうということで同行し、コース(昼食)を注文した。
時間が経ってしまったので記憶が朧気だが、ハーフマルゲリータと牛肉の煮込みが含まれていたことを覚えていて、そのどちらもとても美味しかった。
特に煮込みはいわゆる素材の味がしっかり出ていて、塩でごまかされている感じが一切なかった。
普段自分で料理するときには味付けに不安を覚えてついつい塩をふってしまうのだが、塩味がなくとも十分においしい料理はできるのだということを学んだ。
以来、塩の振りすぎには注意するようにしている。
2月中旬 千葉県のコーヒー焙煎所で美味すぎるコーヒーを飲む
犬連れで千葉に旅行した時の話。
宿泊施設の近くにコーヒーの焙煎所兼喫茶店があるとのことで行ってみることにした。
場所がわからず、周辺を30分くらいドライブした後にようやく店を見つけて入店、母はミディアムロースト、僕はフルシティを注文した。
20分くらい待っていると(店内には独特な本が数冊於いてあり、個人的には飽きずに待つことができた。)まずは母の注文分が届けられる。
きて見てビックリ。
コーヒーであるにも関わらず、カップの底が見えている。まるで紅茶だ。
薄いにしたって限度があるぞと思ったが、まずは飲んでみる。(母の注文分だが、あまりの驚きでつい先に飲んでしまった。)
美味いのである。
薄いと言えばそうなのだが、決して嫌な薄さではない。というかむしろ良い。尾を引くような苦みが一切無く、香りがダイレクトに頭に届くような感覚だった。
後味に苦みは存在せず、ただ香りだけが余韻として口内に残る。
コーヒーと苦みは切り離せないものだと思っていたが、どうやらその限りではないらしい。
何とも言えないのだが、コーヒーの深みの奥底だけを取り出して飲んだかのような体験であった。
3月初週 地元のジムに入会する
自宅から徒歩15分ほどの場所にあるスポーツジムに入会する。今のところ毎週通っている。
なんと5月分まで月謝が無料との大盤振る舞いで、この機を逃すまいと入会した。
いざ運動してみると意外と苦痛よりも楽しさが前面に出てくるもので、想定よりもモチベーションの低下は少なかったように思う。
さてこちらは3ヵ月続くでしょうか?
3月ごろ 製パンにハマる
急に製パンにハマった。主にフランスパンを焼いているが、たまに食パンを焼いてみたりしている。
今度はクロワッサンに挑戦したいが、あまりにも手順が多いのでしり込みしてしまっている。
そもそも僕は手の温度が高いのでバターを繊細に扱うことが難しい。
焼きたてジャぱんの22巻くらいで太陽の手※を持つ主人公、東和馬が氷水に手を付けながらタルト生地をこねていたことを思い出す。
結局、業務スーパーの冷凍クロワッサン生地を家で焼いて食べている。美味い。
※作中で登場した体質。常人より暖かい手は生地の発酵に有利とされていた。筋力増強によって血流を促進し同様の効果を得た手のことは太陽の手甲(ガントレット)とよばれていた。確かグランカイザー(モナコカップ、フランス代表のリーダー格。トーテムポールの一番上。)は生来の太陽の手に加えてガントレットも取得していたような気がする。
3月中旬 実家の母がコーヒー豆のロースターを購入していたことが発覚
前々からコーヒー豆の焙煎には興味があったが、まさか母に先を越されるとは思っていなかった。
例の喫茶店に行って以来、母の冷めやらぬコーヒー熱はついにロースターを買うに至り、自宅で焙煎したコーヒーを飲むことができる環境を完成させてしまった。
流動床式のロースターで50gづつ焙煎できるものだ。
実際に焙煎して飲んでみたのだが、焙煎の「ば」の字もわかっていないど素人が煎ったにも関わらず不思議と美味い。手作りの効果だろうか?
ルワンダ産の生豆を中深入りで焙煎し、ペーパードリップしたものだったが妙な甘みがある良い味わいだった。
今度帰った時には生豆を持ち込んで焙煎させてもらおう。
終わり
結局、思い出せたのは以上である。仮にこの間日記を書き続けていたら、これ以外にも様々な記憶が僕の中に残ったことだろう。
この4カ月で失われたものはやはり大きなものだったのだと感じる。
100日強の冬眠を経て
久々の日記になってしまったが意外とすらすら進むことに驚く。
もちろん100日ぶりの日記という特筆すべき話題があってこそなのだが、それを置いても想像以上にキーボード上を指が動く。
すっかり書く習慣を失ってしまったのでいざ何か書こうと思ってもすんなりとは書けないものだとばかり思っていたのだが、案外そうはならなかったようである。
人は忘れる生き物だというが、さすがに4カ月で忘れさせてくれるほど甘くはない様だ。
冬眠中、「日記に書こう」という動機を失った僕はその行動力も同時に失っていたように思う。
日記を書いていた数か月間は日記のために何かしよう、どこか行こうという行動力の源があったのだが、ここ最近は家にいることが多くなったように思う。
そちらもこれから取り返していかねばならない。
最後に、一応これを言っておくべきだろう。
「明けましておめでとうございます。」
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