日記を書こうとページを開いたが、ある感覚が僕を襲う。
指が動かない。
というか、真っ白なページを前にしてボーっとしてしまう。
もちろん、本当に指や手が動かなくなったわけではない。コーヒーカップに手を伸ばせばコーヒーを飲むことはできるし、こうしてとりあえずの文字を打つこともできている。
ただ、「何か」を書こうとすると指が止まる。「意識」ではなく「脳」が思考を拒否しているような感覚だ。
直観的にこう思った。
「あ、今日は考えるのとかは無理な日なんだな。」
なんか今日は異様に頭が疲れていて、「何か話題を」と考えようとすると思考が渦を巻いてその場に停滞してしまう。川とかに淀んで水が腐ってる部分があると思うんですけど、多分今の僕はあれです。
大脳辺縁系まではしっかり働いているんですけどね。多分今日は僕の前頭葉が定休日で、側頭葉に無理をいわせて何とか日記を書いている。そんな気がする。
こんな日もあるんですね。それに気が付くことができたのも日記を始めたおかげです。
とりあえず日記を毎日書くことは続けておきたいので、尻に火を当てながらこの日記を書いています。
悪しからず。
AI
前頭葉が終了しているときにする話では無いのかもしれませんが、AIってすごいですよねって話をさせてください。
AI技術の発展がすさまじい。どんどん人間が納得するような答えや提案を提示するようになっている。
ここ最近の利活用状況を目の当たりにすると、稚拙な僕の頭でも想像できるほどに、AIが社会に広く受け入れられていく未来が具体的な形を持ち始めていることを感じる。
うまく利用すれば、こうゆう時に代わりに日記を書いてもらうこともできる。(それでは日記の意味がありませんがね。)
今後AI活用が一般化していけば「AIが人間を滅ぼす」のようなAI懐疑論は、ますます不道徳寄りの思考とされて煙たがられていくのだろうか?
実際「AIが威力によって人間の社会を乗っ取る」みたいな過激派シンギュラリティは、ここ最近のAIに対する世論の変化の中でどんどん角が取れて、そのリアリティを急速に失っているように思える。
結局のところ、「AIが人間を滅ぼす」というシナリオよりも、「AIを用いる人間が自らを滅ぼす・首を絞める」というシナリオの方がよっぽど共感できるように感じるのだ。
19世紀は蒸気機関、20世紀は原子力の時代であったと、そして21世紀はAIの時代になると言われている。
きっと世界は人口増加に支えられた大量消費のための「動力の時代」から、人・環境・時間・その他さまざまな事柄の節約のための「システムの時代」へと大きな変化を遂げるであろう。
「消費」から「省費」へ。そのようなスローガンが聞こえてくる。
どのような世界へ生まれ変わっていくのか不明だが、よい時代へ向かっていると信じたいものだ。
話が大きくなってしまったが、ただでさえ終わっている頭が終了しているときの殴り書きであるため、話半分で読んでもらいたい。
もう今日は無気力。
限界である。
漫画等でよく頭から煙が出ている表現があるが、まさにあれである。
つくづく自分の身体というものは僕の言うことを聞かないものだ。そんな天邪鬼の聞かん坊に育てた覚えは無いのだが……
まあでも「電柱を飛び越えろ」と言われても無理であるように、脳にも限界があるのだな。むしろよくやっている方だ。
少し休ませてやろう。
甘いものとか好きかな?
corvuscorax