「大人になると、体調が万全という日はなかなか来ない。」子供のころ、よく大人たちの口から聞いた言葉です。
冬でも半袖に腕を通し校庭で風を切ってもへっちゃらだった当時の僕にとって、その言葉はもはや神話のようなものに聞こえていて「そうは言うけど、実際結構元気なんでしょ? 毎日働いてるし。」などと失礼かつ残酷なことを考えていたわけです。
成人して数年した今ならわかるが、体調はそう易々と万全にはならない。あの頃の大人たちには非常に申し訳ないことをしたと思い始めています。
失われた体力に思いを馳せながら、今日もなるべく健康に生きていきたいと願う。
大人になった僕にできるのは、せいぜいそのくらいです。
地獄に落ちる
昨日の日記にYouTubeを視聴しすぎたと書いた。
具体的に何を見ていたのかというと、海外の失敗・アクシデント集とF1のアクシデント集だ。あと自動車のヒヤリハット集も見ていた。
それらのアクシデントは当人たちにとって非常に不愉快な経験であるだろうが、どうしても見てしまう自分がいる。
以下は僕の懺悔である。
我ながら、自分の中に存在する野次馬の魂というかなんというか……「自分から離れた所で発生する他者の不幸を楽しむことのできる観客」としての能力? には呆れている。不謹慎かつ失礼であるなと思いつつも、こみ上げるムズムズとした笑いの波を抑えることは難しい。
あまつさえそれをリピートし、コンテンツとして消費するマインドは明らかに反道徳的で、もしも地獄があるならば僕はそこに落ちるに違いない。
いや、すでに落ちている可能性すらある。
※ここで「地獄」という表現を用いたが、僕は大多数の日本人と同程度の宗教観を持つと自負していて、特に宗教に明るいわけではない。よって僕の言う地獄は厳密な意味での地獄ではなく、もっと曖昧な、一般名詞としての「地獄」を指していることにご注意願う。
思うに、僕を地獄に落とすのは”僕”だ。
審判にかけられるわけでも、閻魔が決めるわけでもない。僕は”僕の地獄”に自分を落とすことができる。「僕の地獄」とは平たく言えば「罪悪感」ということになるが、その罪悪を決めることができるのはそれを感ずる主体である僕しかいないのだ。
例えば。
一見、社会的不道徳を実行することは無条件で罪悪感を駆り立てる行為であるように見える。
しかし、それが罪悪を掻き立てるのは自身にとって守るべき規範の内に社会的な道徳を置いているからで、「法律・マナー・慣例・その他の道徳を守ること」が罪悪感の元になるには個人の道徳の内側にそれらの道徳が含まれている必要がある。
ただ、個人の道徳観は社会や他者との関わりの中で醸成されていくものだから、多くの人にとって社会的道徳は自身の守るべき規範の内部に組み込まれる。(以前日記に書いた信号機の話に近いですね。)
だから罪悪感を励起する行為に社会的不道徳が当たり前のように含まれるのである。
以上のように、僕は自分に罪悪を与えているのは社会でも他者でもなく自分自身の規範であると感じているので、「僕自身が『地獄に落ちる』と思った時点で、僕はすでに地獄に落ちているのではないか?」と思ったわけだ。
「もっといい人間になりたい。」
そう思いながらも、僕はアクシデント集を見る。
人間、そんなものである。
三連休の威力
自分の胸に手を当ててみると、最近日記の体裁を整えることをサボっていたことに気が付く。一時期は太字を使ったりしてみたものだが、どうも定着しなかったらしい。
おそらく、文字に加工を施すということが、読み手に「ここを読め」と命令しているようであまり好きではなかったのだと思う。
かといって、まったく加工をしないというのは「全部読め」という圧力を放っているようで、これもまた嫌だ。
まったく、インターネットは難しいですね。
ところでここ数日、この日記を訪れる人が急増している。
やはり3連休ともなると多くの人がはてなブログを覗きに来るようだ。「どうせそんなに見られないんだから……」と卑屈な気持ちで始めた日記であったが、多くの人が見てくれるのはやはり嬉しい。
ありがとうございます。
あまりにも色々な人が読んでくださるものだから、僕も調子に乗っている。
「ブログの名前から『壁打ち』を外そうかな?」なんて思ってすらいる。単純な人間である。
ともかく。頭か心か体、もしくはやる気のいずれかが擦り切れるまでは日記を続けたいと思っている次第です。
どうか一つ、僕の脳内露出癖の解消にご協力よろしくお願いします。
corvuscorax