渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

ドライブは期間限定の趣味なのかもしれない

10月16日

 久々の日記になってしまった。

 前回の投稿は9月10日だから約20日ぶりの更新である。冒頭の日付について、普段どのサイズの文字で表記していたかを忘れるくらいには長い間であった。

 この間僕に何が起こったのかといえば、それはたびたび言及している通りであり、地元企業に再就職をしたのである。

 朝7時に起きる生活に適応することができるかどうか非常に不安なところではあったが、今に至るまで寝坊や遅刻はしていない。案外やってみればどうということはなかった。逆に今となっては、夜起きている方が辛いくらいである。

 人間ってのは、変わってしまうのだなぁ。 

 

 現在は仕事上必要な資格を取得するべく職場にて勉強をしているのだが、毎日机に張り付いて8時間勉強するだけの日々を過ごしていると腰も痛くなるもので、少し体を動かしたくなってくるものである。

 そんなわけで、仕事終わりに運動をしようということで毎日ジムに通っていたら、この1ヵ月で5キロ痩せた。BMIでいうと1下がり、健康な身体の獲得に向け大きな進歩を果たした1か月間であったと言える。

 

 そして去年9月末にこの日記を初めてから1年が経過した。あれから1年しか経っていないのかと思うと、1年の長さに驚いてしまう。

 ちょっとめでたいということで、ローソンに行ってチョコベビーを2つ買ってきた。

 久々にチョコベビーを買って食べてみたが、金太郎飴のように練りこまれていた星模様とかが一粒も無かった。流石に僕が購入した物だけたまたま入っていなかったということは考えずらいので、おそらくは制度そのものが消滅したのだろう。別にそれで困ることはないし、損しているわけでもないと思うのだが、ちょっとだけ悲しい。

 

※そんなことを書いてからさらに半月ほどが経過した今日、ようやくまた日記を書こうとしている。ちなみに体重はさらに1㎏減。ダイエットの方は順調です。

 

効率

 周りを見渡すと、いつの間にか効率を崇める雰囲気が支配的になっているような気がしている。

 効率的であることは興味深いが、面白くはないよな。東海道新幹線がいい例だ。

 僕としては効率化を図る仕組みや方法について、その原理のようなものに対しては興味が湧いても、効率化されたシステムそのものの成果についてはあまり興味がない。いつの間にか東海道新幹線にはN700系しか走らなくなってしまったが、かつての他車種が入り乱れて運行されていた様子には心が動いた記憶がある。

 現在は駅に行って切符を買えば、同じ車両がほぼ同じ所要時間で目的地まで連れて行ってくれるが、昔はどの車種の「のぞみ」が来るのか、ちょっとしたくじ引き状態で、そのうえ車種によって所要時間が異なっていた。

 もちろん、「ビジネス」の足としては現在の形態が進化として適切であるとは思うが、そのためにワクワク感は犠牲になってしまった。

 もちろん、過度にワクワク感を求めて目的を見失っては元も子も無いのだが、目的のみに傾倒することは僕には苦痛だ。

 

 僕としては、効率は求めている時が一番楽しいのであって、効率化されてしまった瞬間に事柄は面白みを失うと思う。

 発動機の方のヤマハがバイクについて「この面倒くささがたまらない」というキャッチコピーで何らかのキャンペーン的なものを展開していたが、まさにそうゆうことなのかも。

 最近母の車の車検に合わせて「試乗しませんか?」とマツダCX-5を代車として借りた。端的に行って非常に運転しやすく、乗り心地もデミオと比べて圧倒的と言えるほどであったが、様々な装置が自動化されすぎて、僕がどのように車の操作に関与していいのかがわからなくなってしまった。ライトも、ワイパーも、高速道路ではアクセルまで自動。車とは移動のための手段なのだし、おそらく車の運転には人の操作が介在しない方が道路は安全になるであろうと予想されるから悪いとは言えないのだが、面倒くさくなさ過ぎて、かえって運転するのが億劫になってしまうような……

 もちろん実際に所有したとすればそれに慣れていくものだとも思うのだが、果たして楽しいかなと自問したときに、僕はまだ自分で楽しく運転をしたいと思ってしまう。

 

 運転の自動化に対して退屈を抱くのは、いわば僕の欲望であるが、果たしてこの欲望が不適切であるとされる日がいつか来るのだろうか?

 車の運転というのは、趣味としてはかなり危うい存在だよなと常々思う。危ういというのは、もちろん交通事故やそれに伴う被害者の発生というリスクについてもそうなのだが、あくまで車の運転が必要であるという社会通念の中にしか運転という行為は存在できないという点でも十分に危うい。

 自動運転が発展し、人間が自動車の運転をする必要性が無くなった時、危険行為である運転というものを果たして趣味とできるのだろうか?

 運転という行為の外側を包む「必要」というベールが剥がれたとき、きっと僕は一つ趣味を失うことになるのだろう。

 

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