5月9日
この4月に日記を再開してからおよそ1か月が経過した。
復帰後の日記には冒頭に日付を書き込むようにしているのだが、日付感覚が終了している僕にとってはこれが中々効果的である。いつの間にか季節が移っている生活をしていた時期に比べて、1日ごとに重みをしっかりつけることが出来ているような気がする。
もっとも実感がある事柄としては、今まで全く意識していなかった1週間という時間の単位が自分の中で存在感を持つようになってきていることがあげられるだろう。
それと共に、これまで失われていった時間にも同様の重みがもたらされた。
自分が生まれてからこれまで、また親や祖父母が生まれてから流れた時間の重みを。さらに背伸びすればその先祖や地球上での生命の誕生、はたまた物質や宇宙の誕生、そして時間の誕生までが朧気ながら見えてきてしまう。
時間が持つ果てしない距離感に圧倒されてしまった。
無限なんて無いのかもしれない
過去や未来には無限性があるように見える。
しかし、地上1.5mからの視界によって世界の形が歪められて認識されていたことと同様に、産まれてから死ぬまでという短い時間を生きる生物は時間の自然状態を正しく認識できていないのではないか?
少なくとも人間の寿命スケールでは時間そのものが持っているかもしれない揺らぎは見えず、どの時点においても一様の流れを見せているように見える。地球が平らに見えることと同様に、時間の本質はその距離に圧倒されて見えてこないだけなのではないか。
近視的な時間を生きる人間という生物に、その前後に伸びる果てしない直線からその果てを正しく認識することは現状出来ていない。地球が丸いことに気が付くことが出来なかったことと同様に時間の本来の流れ方を知ることが出来ておらず、その結果として無限性を帯びて見えているだけなのかもしれない。
時間は僕らの想像よりもはるかに蛇行して流れていて、その曲線上の一点に立つ我々からすればその曲線が直線に見えてしまっているだけであるとは言えないか。
数学でいえば、人間は時間という関数を現在で微分した導関数を見ているだけなのかもしれない。現在から離れた点を置き、そこから時間への接線を引くことが出来る、もしくは出来ないことに気が付くのは果たしていつになるだろう。
人間と時間 かもしれない
これはかなりふわっとした意見になってしまうが、人間が、というよりは生物が境界に重きを置いた存在であることが時間認識を歪めているようにも思える。
生物とは何か? 代表的な3要件は以下の通りだ。
①基本単位として細胞が存在すること。
②DNA・RNAを遺伝物質として、自身の複製または子孫を残すこと。
③代謝システムを持ち、一定の恒常性があること。
なるほど確かに原核生物から進化を遂げたとされる我々生物はすべてこの特徴に充てはまるように見える。
生物の目的は増えることである。
つまり②は生物として共通の目的を持つことを指し、また逆に言えば「増える」という共通の目的を持つことが生命の条件であるという事を言っている。そしてその手段が遺伝物質を用いた情報伝達を行う事、つまりDNAやRNAを持ことである。またそれらの入れ物である細胞を持つことや、その細胞が一定期間存在し続けるために代謝を行うことも条件とされる。
今回特に重視したいのは定義①である。
細胞を持つこととは細胞膜によって生物界と無生物界が隔てられているということであり、生物が生物であるためには無生物であってはならず、それを”区別する”ために境界が非常に大きな意味を持つのであるという点を強調していきたい。
生物が生物であるためには境界が存在することが必要であり、その系譜であるヒトもまた境界を強く意識する生き物なのである。
人間は物事に名称と定義を与えることによって世界を理解している。
科学的であるという事は言語や数式という眼鏡で世界を見ることに過ぎず、また科学が宗教を駆逐しつつある一番の要因はここにあるのではないかとも思う。
境界によって隔てられた世界に生きる僕たちは、境界が設定できないものを認識することを苦手としている。海と空の境界ははっきりしているが、空と宇宙の境界を僕らは直観的に意識することができない。その手の境界が曖昧で明確な線引きができない事柄の例はいくらでも挙げることができる。
明確に自己を持つヒトは、境界について特に敏感な生き物なのかもしれない。
生物が”細胞を持つ”こと、つまり境界を持つことがどうして時間認識をゆがめることになるのかという話だが、境界を前提とする生物という存在は境界を重視しない自然状態の宇宙について無意識に境界を設定してしまうのではないか? という事を僕は言いたいのだと思う。
細胞膜という境界によって自然から隔絶されることを選んだ生物という存在が持たざるをえない固定観念や先入観があるのではないかという事であり、そもそも生物はそのシステムの外側を係数することを苦手としているのではないか?
(疲れてしまったのでここで筆を折った。)
時間は明確に終わりや始まりを定義できないものであるが故に人間は時間に対して無制限に視界を広げることが出来てしまい、悠久の過去や未来に自分の視点を連れていくことが出来てしまうのかもしれない。
読みづらく、何を言っているのかがわかりにくい文章
僕の悪いところは頭の中がとっ散らかっていることである。
何かについて考えているときに、目的の方向へ考えの枝をのばすことが出来ない。僕の考えの形はまるで偏形樹だ。脳内によほど強い風でも吹いているのだろう。
文を書いたり喋ったりすることは比較的好きだが、最初に提供した話題と結論が一致しない事が多い。それゆえ聞き手・読み手にストレスを与えることが多いように思う。
言葉を生み出す機能は比較的旺盛だが、考え方についての技能は高くないということなのだろう。それゆえに書きあがった文章が整わず、他人に考えを伝えることが出来ない。
昔からそうだった。
国語や道徳の授業で自分の考えを伝えようとしたときに、自分の考えた通りに伝わることは無かった。
そのことに僕は我慢できず、国語や道徳は嫌いな科目になった。
12年を通した義務教育の中で、なぜ人に気持ちが伝わらないのかは結局最後まで分からなかった。
僕の表現力が稚拙極まることが原因なのか? あきらめずに更なる主張を行うべきだったのか? そもそも僕の共感能力が低いのか? はたまた言葉の限界か?
最終的には「人間関係上、自分の表現力不足に原因を置くことが一番安全である」という考えに至ったが、最近は原因が別にある可能性を考えている。
僕は基本的に面倒くさがりなので、説明の途中で疲れてしまうとそれを中断してしまったり、または大幅に端折ってしまうことが多い。(実際上の文も途中で筆を折っている)
最後まで説明しきる体力や気力、もしくは責任感が不足しているのかもしれない。
そんな自分なものだから、おそらく僕は誤解に取り囲まれて生きている。
自分の考えを上手に伝えることが出来ないこともそうだが、それと同様に僕は他人の言葉を大いに誤解しながら生きているのだろうと思う。
僕は他人から「なんで?」とよく問われる。相互理解が進んでいない証拠だ。
たいていの場合、なぜかは僕にもわからない。「なぜ?」と思う相手の気持ちが見えてこないからだ。ガラスの平均台を渡ることはできない。
もちろん、ある程度の誤解は飲み込んで生きていかなければならないのだろう。
主観的視点から見たコミュニケーションは及第点を目指すことが肝要で、そこには正解が無い。自分の思う100%を伝えようとすることはコミュニケーションではないのである。
人がそれぞれ異なる実感を持って生きていることは明らかであり、相手の理解度の最大値を目指すことは自身の考えをそのまま伝えることではない。
おそらく、そのバランス感覚を適切に持つことが人間関係において最も大切な部分なのだろう。
バランスを保つ際の緊張感や窮屈感、これが人間関係におけるストレスの正体なのかもしれない。
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