4月17日
本日は近くの駅にくっついているイトーヨーカドーへ買い物行った。
製パンにハマってから約1カ月、フランスパンを作るときにモルトを入れてみたくなった。曰く、焼き色がきれいにつくようになるのだとか。
午後5時頃「モルトってなんだろ? ビールのイメージしかないけど、なんとなくカルディに売ってそうだなぁ。」なんて思いながら適当にネットを漁ってみると、件のイトーヨーカドーに富澤商店が入っていることをネットで確認したのでそちらに向かうことにした。
富澤商店
富澤商店には初めて行ったのだが、これはすごい。
お菓子やパンを作ることが趣味の人間がまず通うべき店だと思う。まず、陳列されている粉の種類がすごい。その辺のスーパーで小麦粉を買おうと思ったら多くても10種類の中から選ぶのが関の山だろうが、この店には軽く20種類は置いてある。
もちろん僕はそれらを使い分けられるほどのレベルではないのだが、それでもテンションは上がる。運動ができなくてもスポーツ観戦は楽しめるのだ。
とりあえずお目当てのモルトを手に取った後ほかの粉も物色する。
イーグルとリスドォルを1キロづつ買うことにした。
食材だけではなく用具もたくさん置いてあってワクワクした。レシピを見て「そんなのいったいどこに置いてあるんじゃい。」と思っていた型(カヌレの型とか)も一通り置いてあった。
発酵に使うキャンバス地を持っていなかったのでそれを購入した。今度試してみよう。
手作り感について考えたが、うまくいかなかった。
パンは買えばいいと思う。
そう、パンはわざわざ自分で作らなくてもその辺の店で手軽に買うことができる。たとえ非効率であってもパンを作ってしまう理由は何か?
人間は効率的に生きるために、他人を信頼しているのである。
例えば、このブログを書いているパソコンは自分で作ることができない。
このパソコンを動かしている部品がそれぞれどのような理屈で動作し、総合的な機能にどう影響するのかも僕は知らない。
スマホや車だってそうだ。
たとえそれらがブラックボックスだとしても、その表面に現れる物理現象が自分にとって有用だと判断するから僕らはそれらを使う。
食料に関してもそうなのである。
僕たちは食糧生産のすべてに関わり、また監視することができるほど暇じゃない。近年は食品のトレーサビリティが話題に上がることも多いが、それでもやはり限界がある。
そもそも食品は膨大な数の食材の集まりであるし、その生産者ないしは製造者である個人もしくは法人をどう信頼するかということもまた難しい問題なのだ。
現実として、多くの人はコンビニで買ったパンを構成しているたんぱく質がどこから来たものなのかを知らなくてもそのパンを食べる。
この場合、僕たちはコンビニを信頼することになる。
コンビニという情報のボトルネックを作ることによって安心感が生じるのだ。
あらゆる製品の信頼性について信頼の関門を作ることによって、僕たちは安心感の中で自分の生活や仕事に集中することができる。
知らなくてもよいことは知らなくてもよい。
効率的に生きるとはこういうことだ。
ただ、人間の好奇心はやはり厄介で、あるものをあるがままに享受するのみでは満足いかない瞬間があるのである。
人間の最大の武器の一つは知識の蓄積とその伝承であるとは思うのだが、知識として知っているだけでは安心できない時もある。できるなら経験も欲しいと思ってしまうのだ。
もちろん、人間には想像力という便利な機能が備わっている。これは中々強力な機能で、やりようによっては行ったことも無い海外の公園を散歩することもできるし、もしくは現実には存在しない場所すら歩くことができる。その機能を使えば知識から経験を生み出すこともできるのだが、残念ながら僕はそこまで賢くない。
経験によって習得できることがあるならば、できる限り取り入れていきたいのである。
では、僕たちは経験から何を得ているのかという話になるわけだが、話が長くなってしまったのでとりあえずここまでで終わる。続きはいつかの日記に書くかもしれない。
結局パンを手作りすることの理由は説明することができなかったが、結局は手作りの成果物との距離感によって達成感を得たいということなのである。
今日はその達成感の正体について考えようとしたのだが、うまくいかなかった。
早速パンを焼いてみる
今日買ってきた食材を用いて、さっそくフランスパンを焼いてみる。
新しい小麦粉で生地をこねてみたのだが、日清のカメリヤよりも粘り気があるように思う。いや、それともモルトの効果なのか?
苦戦はしたが、何とか焼成にこぎつけた。
結果、いろいろ改善点はあるが中々うまくいった。
corvuscorax