ええ。ええ。知ってますよ。
ここ、はてなブログには「ぐるーぷ」というシステムがあることを。
でもね、やっぱり怖いんですよ新しい環境って。
学生時代は否応なく自動的に1年ごとに新しい環境に切り替わるけれども、それに曲がりなりにも適応できていたのはそれが与えられる変化だったからであってですね、自分から進んで受け入れる変化というのは誰でも怖いものだと思うのです。
ここでいう「環境」というのはもちろん”自然”的なそれではなく、人間関係や文化である。すでに出来上がっている人の輪に異物として入り込むことほどストレスを生むシチュエーションはあるまいて。
要するに、僕は何かに参加するということが苦手なのかもしれない。
参加すること(あくまで僕にとって)
「参加すること」はかなりのHPを消費する行動だと思う。少なくとも僕にとってはそうだ。
参加とは既存の人間関係や文化に適応し、それら共同体の目的達成のための行動を共にすること。これはきわめて政治的な行動で、何かに参加するということはそのほかに参加しないという意思表示にもなりうる。要は敵を作るのである。
「参加」の恐ろしいところは、敵を排斥によって打ち負かすことに意味がある営みであるということだ。「参加していない」ということによって共同体から排斥を受けたときにそれを如実に実感することになる。
仲間に入れてもらえないということは、曲がりなりにも社会的動物である自分にとっても十分つらいことだ。それならば「敵を作ったとしても何かしらの共同体に参加していたほうが安心なのではないか?」と思いもする。
ただ、参加するという行動にはそれらの共同体に新たな価値を生まなければならない責任が伴い、参加者は正義を履行し共同体に不利益を与えない責任を負う。特に後者の責任は非常に恐ろしいもので、もし放棄すればその程度によっては最悪いじめや排斥といったリンチにつながると思ってしまうのだ。
その矛先となることは不参加以上の恐怖を味わうことになるだろう。そう思うと参加することは恐ろしいことのように思えるし、それらを実行してしまう人間という生き物自体に恐怖を抱かずにはいられなくなる。
結局「何かに参加すること」は「何かしらの正義に属すること」と同義で、そのパワーに僕はうちひしがれてしまう。参加することのメリットよりものちの排斥を恐れて参加を尻込みしてしまうのだ。
参加するという行動は「仲間」や「絆」といった言葉が良いイメージとされていることに引っ張られて好意的な印象を受けるが、実際のところは激しさを伴うものであると僕は思う。
それゆえ「不参加による排斥」のほうが「参加からの排斥」よりもましなのではないかという価値判断が自分の中で働き、壁打ち虚無ブログをやっている次第である。
僕はそれでもグループに入るか?
それでも人間は弱いもので、やっぱり僕も仲間が欲しい。
だから今日僕は何かしらのグループに入ることにした。そのほうが多分ブログも楽しくなるし、多少は人に見られている意識が芽生えて文章力や構成力が成長するかもしれないし。
というわけで、はてな公式が開設しているらしい「2023年開設ブログ」に参加してみた。さあどうなる?
corvuscorax