すっかり二日酔いも吹き飛んだ今日は姉の退院日だった。
姉の退院に伴い、実家で預かっていた例の鳥たちも姉の家へ帰る。先ほど、実家から片道で2時間ほどの場所に住む姉の家まで2羽を車で送り届けてきたところだ。
彼らは普段から定期的に姉が動物病院へ(むろん車で)連れて行っているため、とても車に慣れている。トンネルは苦手なので助手席の母が声をかけて落ち着かせる必要があったが、道中はおとなしく止まり木にとまってくれていた。
運転に集中できて助かった。できた鳥たちである。
ひとまず彼らも無事姉の家へ帰り、僕も実家へ戻ってきた。(まぁこの後自宅に帰るので、また運転しないといけないんですが。)
実家から帰ってしまうのは寂しいが、姉が退院できたことはめでたいことだ。
今後機会を見つけて姉の家まで会いに行こうと思う。会いたいので。
幸い実家には毎日湯船にお湯を張る文化がある。今日は普段は入れない湯船に浸かってゆっくりしたい。
風呂
僕は昔から風呂が好きで、ひどい時には1日5回風呂に入る水道光熱少年だった。
大人になった今でも風呂好きは衰えず、暇があれば温泉や銭湯にもよく行く。ひとたび湯に浸かれば1時間浸かり続けることもザラで、一度脱衣所で服を脱いだら浴室からは2時間は出てこない。身体には明らかに良くないが精神にはとても良い薬になる。
サウナと一緒である。
体には悪いかもしれないが、それを差し置いても入りたくなる魅力的な何かがある。その「何か」に対する今のところの僕の見解は「人間の脳には近くに危険があるからこそ働く部位が存在するのではないか」だ。つまり、僕は温浴に「スリル」を求めていることになる。
高温は生物にとって生存を脅かす要因の一種であり、それを感じ取った脳は危険に対応するために特定の部位を稼働するのだ。つまりは温浴によって生存に対するストレスが形成され、そのストレスを僕は好んでいるのではないか?
僕は無意識に、生きることへの張り合いをそのストレスによって確認しているのかもしれない。
雨の果てと他者理解
パーキングエリアで休憩中、空を見ていて思った。
「雨の中にいると、『雨の果て』が存在することが不思議に感じるなぁ」
※これについては今日思い至った事柄なのであまり考えられていない。以下、できる限り説明しようと試みたが、ふわふわな文章になってしまった。おそらく「何言ってんだこいつは?」と感じさせてしまうと思われる。
雨が局所的現象であることは周知のとおりで、もちろん自分の上で雨が降っているからと言って世界全部が雨であるわけではない。
しかし雨の中に存在する自分自身を強く意識すると、今降っている雨雲に果てが存在し、別の人の頭上では陽光が注いでいるという事実を直観的に理解できない時が僕にはある。天気は地上において”分布”するものだと「考える頭」ではわかっているのだが、それでも僕の実感において世界は雨なのだと思えるのだ。
おそらく僕は自意識が強いので、以上のような天気観にもその影響が出ていると考えることもできる。
つまり他者の痛みを想像することが難しいことと同様に、遠方の天気を具体的に想像することが僕には難しいのではないか?
そう考えると恐ろしい。上述の例えは逆もまた成立するからだ。
僕は遠方の天気が自分の観測している天気と異なることを理解できないことと同様に、他者の痛みを想像できていないのではないか?
これについて確認することは難しい。他者を実感すること(=自分が他者になること:他者の痛みを自分が引き受けること)ほど不可能なこともなかろう。
つまりこの悩みには逃げ道は無い。
逃げられない以上、戸惑いながらも「これがよい」という選択を続けてゆくしかない。
人生の地獄たる所以の一つだ。
帰宅する
日記も書いて、小一時間休憩もできたのでそろそろ自宅へ帰ろうと思う。
今日は一日運転尽くしでかなり疲れた。普段は実家から自宅までの2時間ほどをノンストップで乗り通してしまうのだが、今日はさすがに途中で休憩しようと思う。
食パンほどのサイズのデニッシュを母から譲り受けた。食べきれるだろうか?
corvuscorax