この日記を初めて早1ヵ月。すごく早かった。
意識的に過ごすと体感時間は早くなる。というとのはちょっと違って、僕の場合、だらけていても普通に超速度で時間というものは過ぎ去っていく。
ただ超速度の時間の中に自分が何かをしたという目標物があるとその速度を実感しやすいという意味で「早かった」と言った。
空港等で飛行機を見ているとき、機体はすごくゆっくり飛んでいるように見えるのにその影はものすごい速度で地表を這いまわっていて、その影を見て飛行機の速度を実感するのと似ている。(わかりずらい例えだ。)
ともかく1か月続けることができたことは僕にとって喜ばしいことである。これからも頑張って続けたいです。
今日は生意気にも「言葉」について考えてみた。
自分自身の文章の拙さに対する不安に端を発した文章である。
僕の文章
僕は論理的に文章を書いていない。特にこの日記では頭に浮かんだことをそのまま書き出しているので、書き出したことを反芻しないし、前後の文のつながりや文法も全く意識していない。この日記のズタボロな文章によって、読んでいる人にストレスを与えていないかが心配だ。
また個人的な問題として、このような文ばかり書いていて、いざ必要な時に人に伝えるための文章を書けなくなってしまったら最悪である。
とりあえず文を書く習慣をつけながらタイピング訓練をするために毎日日記をつけているが、このまま「とりあえず」を続けた先に何が待っているのか。正直そこに光は見えない。
言葉
僕は「国語」を適当に使いすぎなのではないかと不安になる。
今ここで「国語」と呼んだものは「日本語」とイコールではない。国語とは我々の意識に根付くものではなく集団に宿るものだから。たまたま国語が日本語であったから我々は頭の中でも日本語で思考するが、頭の中で考えている日本語は「国語」とは違うと思う。
僕は国語を技能だと考えている。
国語とは人と人が言葉によってつながるための道具であり、情報の解像度(ツールとしての機能を担保する)を保つためにそこにはルールが必要なのだ。自分自身の頭の中の日本語で語りかけても相手の日本語と微妙に異なるので、自分の日本語を「国語」に置き換えて相手に伝えねばならない。
つまり頭の中で私たちは日本語を自由に使用するが、本来の「国語」としての日本語は決して自由ではない。全員考えていることが違う中で互いに意思疎通を図らなければならない以上、決まった型が必要になるのだから。
決して各人の頭の中の日本語(長いので”私語”と呼んでみる)を下に見ているわけではない。”私語”があってこそ国語は意味を持つのであって、「国語を正確に寸分狂わずに使ったほうがいいのでは?」という提言ではない。
”私語”としての「日本語」と、”私語”を他人に伝えるための道具としての「日本語」を使い分けられている自信が私にはないのだ。
自分が人に何かを言葉で伝える時、無意識下に存在する自分の日本語を用いて記述しているのではないか?
この不安を払拭するべく、実家から国語便覧を持ってくることを決意した。日曜日の昼。
友人と昼からワインを飲む
今日は町田駅まで出てきて友達とワインを飲む。
昼から酔っぱらえるとは、こんなにうれしいことはない。
僕の国語修行の進行度は「日記」という形で公開されていますので、いったいどれほど成長するのか? あるいはしないのか? 乞うご期待と言えるかもしれません。
最初は「いやー!見ないでー!」といった心持で始めた日記ですが、今は誰かに読まれていることが心地よくなってきました。
読んでくださっている皆さん、ありがとうございます。せめて暇つぶしぐらいにはなっていると幸いです。
corvuscorax