この前、体育館に行った帰りの話。信号待ちで電柱を見ていた。
「いっぱい立ってるな~」と思った。
電柱
体育館と同じで、電柱ってのは日本全国どこに行っても電柱だなと感じる。もちろんメーカーや地域ごとに細かな差異はあろうが、それでも「電柱」と聞いて想起する朧げなイメージから大きく外れることはない。
コンクリっぽい見た目で、上部に横並びで3ないしは2本の電線、その下に何本かごちゃごちゃした線、たまに乗ってる乾電池みたいな変圧器、飛び出てる足場。縦長の広告と住所。
これほど深く「光景」として僕らの頭にめり込んでいるにも関わらず「僕らは電柱について無知だな」と思った。
少なくとも僕は電柱がどのように立てられるのか知らない。イニシャル・ランニングコストも知らないし、高さも重さも知らない。どのような用途の線が何種類通っているのかを知らない。国内に何本あるかも知らない。メーカーも知らない。誰が立てているのかも知らない。
普段使うものについて無知であることは人間の常である。
自分が求めるものや獲得したものについて人間は知力を行使するが、「在るもの」や求めなくても与えられるものについては無知であり続けることもできる。
「なにげなく」というのは、実はとても罪深いのかもしれないな。
信号機
もちろん、社会に生きるものとして信号は守るし、守るべきものであると思っている。それはそれとして、信号というものの危うさが気になった。
信号機は歩行者や車両が安全かつ円滑に交差点を通過するために、青・黄・赤の三色が周期的に切り替わることによってそれぞれの交通の流れを制御している。僕らは直観に近い部分でそれらの信号を守る。青なら進むし赤なら止まる。そう教育された僕らはそれを知らないことを許されない。この国で生きるために理解しなければならない最低限のルールの一つだ。人を殺すな、火を放つな、信号を守れ。
それぞれが信号を守ることによってそれぞれの安全を守る。
信号機による交通統制というものは赤なら止まるという約束や、それを守るという利用者相互の信頼の上で成り立つものだ。ただ、その約束は破ろうと思えば簡単に破れてしまうという点で危うい。(交通違反で罰せられるのが嫌とかそういった心理的障壁以前の問題として、僕らが信号を守らないことは物理的に容易だということ)信号機が機能するという状況は、全員が「信号を守る」という意思を持ち、それを実行していなければ発生しないのだ。
信号機を守る僕らは、今日も信号機に守られている。
これも一つ、人間の神秘だなと思ったのであった。
免許返納
最近、僕は免許を返納したほうがいいのではないだろうかと思い始めている。
というのも、赤信号は守れているのだが、青信号が守れていないことがあるのだ。
進行方向に青信号が見えているのにブレーキを踏むことがある。一方で「青信号になった」と認識できているのにアクセルを踏めない。まるで運転中に自分以外の何者かが意識を乗っ取って「ブレーキを踏め」と命令を下しているようで気持ちが悪い。
もし僕が中世に生きていたならば「悪魔に取りつかれた」と思っていただろう。「悪魔」という外部の意思決定器官のせいにしたくなるほどに、自分の意志ではどうしよもない強制力が僕の内部で働くときがある。「ブレーキを踏んだら加速した」という供述を聞いたこともあるが、あれは少なくとも本人にとっては本当だったのではないかと思えてしまう。自分の意識の外側に、自分を操作する系統が存在していたのではないか?つまり彼らも悪魔に取りつかれているのだ。
自分自身は完全に自分の意志のコントロール下だとはどうしても思えない。それを実感するエピソードがあまりにも多い。
今はすっぽかしているのが青信号であるからまだ良い。これを赤信号でいつかやってしまうのではないかという恐怖感がすごい。
というか気が付いていないだけで、僕の中の悪魔は赤信号を無視させているかもしれないではないか。社会悪である。
これについては、本当に人に相談すべきだと思う。
今月中に医者なり警察なりに相談してみよう。真面目に。
紅茶
コーヒーをよく飲むと日記に書いた。
実は紅茶も飲む。今日は朝っぱらから胃の調子がよくないので、コーヒーではなく紅茶を飲むことにした。僕は柑橘類が好きなので、アールグレイが好みである。
紅茶について特にこだわりや深い知識はないが、「ぬんちゃ」というものに行ってみたい。なんか優雅だし。
corvuscorax
今日の鳥 近所のカワセミ