渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

好きなものについて

 連日酔っ払い日記になってしまって申し訳ない。今日も小中の同級生だった人の母と地元で酒を飲んでしまった。

 よって本日も支離滅裂な文章がネットに放流されることになるがご容赦いただきたい。

 

 ふと疑問に思った。自分が好きだと思っているものすべてに好きである理由があるのか?

 例えば僕はブドウが好きだが、それにどう理由をつければよいのか非常に困る。

 「好きな食べものは何ですか?」と聞かれたら「ブドウです。」と答えられはするが、さらに「なぜですか?」と聞かれてしまえば「味が好みだから。」としか答えようが無い。ここで「味が好み」という返答はブドウが好きな理由になっているのか疑問に思ったわけである。

 ここで好みは理由にならないと言われてしまえば、僕は理由もなくブドウが好きであるということなる。「ブドウが好き」はつまり僕がブドウを食べた瞬間に判明する肯定的感情なわけだがそれは完膚なきまでに個人的な問題なわけで、他人に説明しようとすればその人間が僕のことを積極的に理解しようとしない限り何一つ相手に伝わりはしない。理由が説明できない以上、相手の中で僕の「ブドウが好き」という心は再現ができないのだから。

 じゃあ”理由”ってのは何ぞやと。

 この場合の”理由”は、行動する自分と思考する自分が同一であると人間が納得するために必要な装置であるように見える。上記の例に於いては、僕がブドウを好きなことは本当だが他人は納得していないので、それを説明するうえで理由が必要になっているというだけだからだ。

 ここで、納得する主体は自他を問わない。自分の中にも層序が存在していて、その最外面に位置する自分が納得するために最奥の自分が理由を提示する必要がある場面や、輸入した理由でもってそれらの整合を保とうとする場面が存在するからだ。つまり自身への好奇心や外的圧力に起因した自己表現が求められる際に必要になる手続きであってそれ自体は意味を持つものではないのだ。それでも理由が価値を持っているのはその手続きによって想起される感情に意味があるからだ。

 

 であるからして、冒頭の自問にひとまず答えを与えるならば、「好きだとしても理由がわからない場面などいくらでも存在する。なぜなら他人や自分への説明の必要がない好意=好みが存在するから。よって、答えは否である。」となる。

 一方、理由もなく好きという状態は確かに自覚がある現象だが、それは考えの外側に理由があるから説明しづらいというだけで、説明しようとすれば案外言葉になってしまうのではないかとも思うのだ。

 しかし、それはなんだか悲しいことのように思える。

 

 当然、以上の文章は酔っ払いが適当に思いついて書き起こした戯言であるから、本来の僕の日記として読むことは推奨されない。

 酔っぱらうことでにじみ出る本心ももちろんあるが、僕の思う「僕」とは酔っぱらっていないときに自制して、他人向けに作り上げている自分のイメージであるから。

 今日の日記は確かに僕が書いているが、それは僕の求める僕ではないことは言っておきたい。言い訳がましいが、それだけは明言させてほしい。

 

corvuscorax

 

p.s.カクヨム始めました。何を投稿するかは未定です。