渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

昼食のマクドナルドで思うこと

 今日の昼はマクドナルドを利用し、サムライマックダブル肉厚ビーフを食した。塩気が濃くておいしい。

 ちなみに「体重が5キロ減るまでマクドナルドに行くことができるのは週に2回まで」と宣言しているので、今週はあと一度しかマクドナルドに来ることができない。

 そんな悲しみを胸に、ポテトの塩味をこれでもかと言わんばかりに嚙み締めた、火曜日の昼。

 

期間限定

 当初僕は、サムライマックのことを期間限定メニューだと思っていた。

 発売から半年ほど経ってもメニューに載っているのを見て「どうやら期間限定ではなくて新定番らしい」と勘違いを悟った。食べてみるとその十分なボリューム、十分な塩気に満足し、以来僕はマクドナルドに行ったらサムライマックを注文するようになったのであった。

 

 ちなみに、なぜ新定番であることを悟るまで注文しなかったのかといえば、僕は期間限定メニューがあまり好きではないからである。

 別に販促戦略が透けて見えて嫌とかそうゆうのではなく、期間限定の「期間」が終わることがただ悲しいのだ。

 当たり前だが、期間限定メニューが空前絶後においしいものだったとして、期間が終われば食べることができなくなってしまう。その時の悲しみや”まだ食べたい欲求”の渦に僕の意識が耐えられないのである。

 例えば仲が良くなった友達がいたとして、その人物が「デンバーに引っ越します!」となったとしたらやはり残念に感じるものだろう。そのやりきれなさから「行かないで!」と言いたくもなる。

 せっかく仲良くなったのに自分の目の前から消えてしまう悲しみ。それに近い感情が期間限定メニューがメニューブックから消える時に発生する。

(食べ物と自分との関係は非対称であるから、対等な人間同士の関係性を例えとして提示したことは不適切であった可能性がある。今回の例は、正直な自分の心の動きに焦点を合わせた場合、つまり対人関係においてきわめて自分勝手にふるまう心の動きに目を向けた例え話である。)

(「相手には相手の人生があるから仕方がない」と納得ができるのは人間の共感能力のなせる業だ。それ以前に自分がどう感じるかにフォーカスすると、やはり残念な気持ちは存在するはずなのだ。)

 

 期間限定メニューは、それが良いものであれば良いものであるほどに失意を生む。

 発売期間という余命が決まっている不安定さを僕は嫌っている。

※同様に、僕は飲食店のメニュー改定が怖い。ここ最近で最もショックを受けたのはサイゼリヤの「フリコ」消滅である。失意のどん底に突き落とされた。

 

青いマックの日

 マクドナルドでイートインをすると、トレーに一枚紙が敷かれている求人広告に目が留まる。「マクドナルドのクルーになりませんか?」と書かれているあれだ。

 携帯電話に慣れ親しんだ僕たちは「食事中に携帯電話をいじくりまわすのもなんだかなぁ」と思った場合、携帯電話以外に視線を向ける先が欲しくなってくる。視線が手持無沙汰なのだ。かといって、店内をなめるように見回すことは何となく失礼なような気もする。

 そんな時につい見てしまうのが、パブリックな店内で一時的にパーソナルな空間となっているトレーなのだ。公共の場である店内で唯一凝視することが許される点がトレーの上なのである。うまい場所に広告を仕込んだものである。

 

 そんなトレー上の広告だが、今日はいつもの求人情報ではなく「青いマックの日」の宣伝が書かれていた。

 「青いマックの日」とは、どうやらハッピーセット1つ売り上げるごとに50円がドナルドマクドナルドハウスに寄付されるという趣旨のイベントのようだ。

 

 ただ僕はもうハッピーセットを頼むことができる年齢では無いので参加はできない。

 悲しいなぁ。

 

※率直に言えば、この広告を見て「寄付にかこつけて売り上げ稼ごうとしてんじゃないよ!」と思った。ドナルドマクドナルドハウスで過ごす人々に向けられたはず僕らの善意が、マクドナルドによって中抜きされているように感じるからだ。要は自分の善意を利用して金を稼がないで欲しいということである。

※しかし、これについて思い直してみるとまた別の考えも浮かぶ。そもそも、今回の「寄付をしよう」という善意はマクドナルドのこのイベントがなければ発生すらしなかったものなのだ。そのような出自を持つ善意を自分のものとして扱うのは無理がある気がする。だとすれば、その善意を生み出したマクドナルドが稼ぎを得ることは何ら悪いことではないではないか。

※何とも言えないですね。僕は特にボランティアとか寄付とかそうゆうのに詳しいわけではないので、方法によらず、寄付する気があるなら黙って寄付するのがいいのかもしれません。

 

頭の中身に常は無い

 一日の中でも大きく考えは動く。

 もし一貫性のなさを嘘と呼ぶのであれば、脳みそはとんだ嘘つきなのであり、まったく信用のおける存在ではない。

※一貫性のなさを嘘と呼ぶ:嘘が噓であるためには、以前の発言と食い違っている必要がある。ゆえに、一貫性を欠くことを嘘と呼ぶのではないか? ということ。

 その嘘つきな脳みそとどう付き合っていくかで人柄は変わるのではないだろうか。

 

※そういえば。昨日の日記では今日お題を消化するみたいなことを言った気がするが、結局マクドナルドに飲み込まれてしまったので明日消化することにした。

 

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