「今日こそお題消化するぞ」と意気込んで編集ページを開いてみると、見慣れぬ”鍋合戦”の文字が見えた。
昨日、日記の締めで「明日はお題消化する」という旨の発言をしたと記憶しているのだが、お題が更新されてしまったので今日はお題を消化しません。
このようなお題消化宣言の不履行は、いったい何度目でしょうか?
なんにせよ、お題を逃してしまったことについてはもはやどうしようもないので、今日のところは何か別の話をしようと思います。
一貫性について
私たちは多くの場合で帰納的に物事をとらえるからこそ、一貫性という性質は多くの人にとって好ましいこととして認識され、それを持つ人間は歓迎される。
僕も日々関わりあう人々に対して、一貫性を持った言動を心掛けたいと常々思っている。
自身の宣言には責任を持ち取り組みたいものであるが、現実にそのような生き方をすることは非常に難しいものだ。
「昨日まで○○であったから、今日も○○である。」
帰納的に物事を捉えるとは、要するに「考えなくていいことは考えないようにする思考法」であるが、これは人間にとって非常に重要な機能である。
思うに、この機能を脳が備えたことによって人間は”判断を強いられる瞬間”を劇的に減らすことが可能になったのではなかろうか。
そのような思考の省略は脳の処理能力に大きな余裕を与え、他の判断をする余地を脳内に作り出した。その結果が現在のヒトの繁栄なのではないか?
そう思うと個人的には納得がいく。
意思決定は運だと思う
ある事象に直面した人間の意識は、その時々に独立して判断を下す。
例えばムカつくことが直前にあったり、トイレに行きたくて焦っていたり、疲れていたり、眠かったり。そのような外的要因は人間の意識に大きな影響を与え、意思決定の結果に拡散を生む。
おそらく、人間の意思決定において「ある事象」という初期情報はアンサンブル的に脳内で処理されており、どのスペクトルが表層に現れるかは確率でしかないのだと思う。
ゆえに人間は、以前と同じ事象に出くわしたとしても、自身の意識が以前と同様の動きを示すとは限らない。
人が何かに向き合うときに、それに対してどのような態度を示すことができるかはいわゆる「運」が決めるのではないか?
嘘つきになる瞬間
昨日投稿した僕の日記を読み「この人は明日お題を消化するのだな」と前提した上で今日の日記を読む人間が一体何人いるのかは存ぜぬが、そのような人(仮にAさんとする)が存在すると仮定する。
Aから見れば、僕がこの日記を公開した瞬間に嘘つきであることが確定する。
その瞬間が着々と迫ってきているのである。
この日記を公開した時点に、僕は嘘つきになるのだ。
それはさておき、脚が痒い
脚が痒い。
この日記で書いたことがあるかどうかは忘れたが、僕は猟奇的アレルギー持ちで、蕁麻疹および痒みと闘う毎日を過ごしている。
そして今日もまた何かがアレルギーに引っかかったらしく、僕の大腿は痒みに襲われているというわけである。
蕁麻疹ができるとなんか疲れる上、それが収まった後は決まって眠気に襲われる。
今日から明日にかけては、眠気にまかせて惰眠を貪る事にしよう。
corvuscorax