6月13日
ここ数日悩まされた振戦から解放された今日の僕は晴れやかな気持ちで、、と言えたらいいのにな。今日のような、じっとりと暑い日に気分が良くなるほど僕は元気じゃないのである。
僕だって小学校低学年の頃はもっと素直で元気な少年だったと思うのだけれど、小4くらいからひねくれ始めてしまったように思う。なにか明確な原因があったかな? なんて思い出してみたけれど、いまいちパッとしない。
ひょっとすると小4の時に両膝を骨折したことが影響しているのかもしれないし、小3の時に集合場所に友達が1人も居なくて泣いたことが関係しているのかもしれないし、モンハンや動物の森を持っていないがために一緒に遊ぶはずの友達と一緒に遊ぶことが出来なかったことが関係しているのかもしれない。
当時の僕は上記のようななんとなく孤独を感じるような出来事をうまく処理することが出来ず、それを今まで引きずっているのだろうか?
最近ネットを見ているとやれ転職だ、やれ適職だ、といった類の広告をよく見かける。もちろんそれは僕がその手のサイトをたまに閲覧するからなのだが。
そんな広告を少し眺めてみると「適職診断」なるものを売り文句にした転職サイト・エージェントが散見される。最近見たものの中には「5分で適職診断!」と謳う広告もあった。5分でできる適職診断に何年も付き合わねばならない仕事を決められてしまうのは、果たしてどうなんだろう。
結局こうゆうのは占いと同じで、自分を勇気づける手段でしかないと思うのだが、”論理的にー”とか”科学的にー”とか言い始める前は政治を占いで決めることが普通だったと考えればあながち馬鹿にもできないなとも思う。むしろ水と油のように見える”占い”と”科学”は、行動に伴う責任感や抵抗感を軽減して人間の行動力を引き上げる機能を有するという点で似ていると言えるのかもしれない。
人間が一歩踏み出す理由にさえなればそのプロセスが何であろうと関係は無いのであって、仮に自身が数十年にわたって積み上げた「自分」をものの5分で診断されてしまったとしても、それに納得して行動するきっかけにできるのであればそれでいいのである。
自分で考えずとも何かが答えを与えてくれることが大事なのであり、その方法は実のところ何でもよいのだ。現在のところ、それらのノウハウの中で主流になっているのが科学であるというだけなのである。
天気予報を見て傘を持つ事と、占いを見てラッキーアイテムを持つ事は等価に見えないが、どちらも聞いた話を基に判断しているだけで大体同じことをやっているのである。僕たちは科学を信頼しているから傘を持つことに妥当性を感じるだけで、占いの方を信用していれば「雨予報だから傘を持つべき」と考えるように「ラッキーアイテムを持ち歩くべき」と考えるはずなのである。
とはいえ、さすがに非科学的である事が大きなディスアドバンテージになってしまっている現代社会に於いて、占いに全体重をかけている人を怪しんでしまうのもまた事実だ。だがその怪しみは、自分自身の科学に対する信心が生み出しているのだということも、また忘れたくはないものだ。
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