5月27日
文を書く習慣をつけようということで始めたこの日記も、冬眠を挟んで早8カ月が経過する。
ここいらで「いっちょ、これまでの日記を少し見返してみるか」と言うことで過去記事をあたってみたのだが、それぞれの記事が独立しすぎなのではないかと感じた。
そもそも僕はいろいろなことに関して”もち”が悪いので、昨日考えていたことを翌日も引き続き考えるようなことは稀だ。昔のゲームみたいに、セーブのできない一発勝負の連続を僕は生きている。基本的に昨日考えていたことなんて今日の朝にはきれいさっぱり忘れているし、今日考えたこともやはり明日には忘れているはずだ。
日記を始めた当初の僕は、日々消えていく自分について勿体ないと感じたがために日記を書き始めたと語っている。確かに日記にはその日考えたこと、思ったことが記されていて、見返してみれば「あ~確かにそんなこと思ったっけな?」となるくらいには記録として機能している。
ただ、これだけではまだもったいない。消えていく自分が勿体ないのはなぜかと言えば、本来積み重ねることが出来るはずの何かが積みあがらずに忘れ去られていくことに虚しさを感じるからだ。
現状の日記は、ただ思ったことをそのまま書き出して放置されている状態で、これでは消えていくこととほとんど何も変わってはいない。文字になったことによって多少忘却に対する耐久度が上がっただけで、そこから何かが産まれているかと言われたら答えに詰まるのである。
仕事なりスポーツなり勉強なりでも同じことだが、本来記録をとることを目的にしてはならないのだ。記録は何かに活かされてこそ価値が生まれるのであって、何も産まない記録はただ記録媒体の容量を埋める在庫に過ぎない。
ただなんでも記録することが無意味であるとは言っていない。少なくともデータ収集の段階において、データはとることにこそ意味がある。問題は後からそれらを考察し、何らかの結論を得ることが出来ているかどうかだ。
一見無意味な記録を何に活かすのかが腕の見せ所であり、それこそが記録の持つ価値なのである。
「たまには過去記事も見返そう」とたまに発言してはいるが、今まで本気で読み返したことが無かったのだが、せめて月一回くらいは過去記事に目を向ける日を作ってみてもいいかもしれない。
今月末から「見返しの日」を設定することにした。毎月最終日はその月の記事を見返してそれらについて言及する。(今月は31日。)
ただ、一か月分の日記はそれなりに量がある為、ひょっとすると数日に分けて見返すことになるかもしれない。それについてはやってみてからのお楽しみです。
生命圏
昨日の日記を見返したところ「人間は人間圏を発明して自然に対抗してきた」ということを言っているのだが、それについてさらに進んでみることにした。
人間は人間圏を形成してその生存を確固たるものにしてきたわけだが、これはよく考えると拡大された縄張りであると捉えることが出来ないだろうか?
「縄張り」とは何か。それは何らかのパラメータに基づいて決定される境界を設定し、その所有者が排他的に利用できる空間のことである。
生命にとって境界が大事であることは言うまでもない。生命が生命であるためには細胞膜等によって非生物圏から隔離されていることが必要だからだ。ある意味「身体」とはあらゆる生命が共通して所有している”縄張り”と捉えることもできる。生物とは境界によって成り立つ存在であるからこそ、他の物質よりもはるかに境界に対して敏感なのかもしれない。生命にとって縄張りは割と根幹に位置する概念である可能性があるのだ。
縄張りを持つことによって生命は領域内の物質循環をある程度コントロールする権利を手にする。
実際にヒト以外の動物種も自身に都合の良い環境を作り上げようと一定の行動をするように見える。
ビーバーはダムを造るし、繁殖期に入って営巣したカラスのつがいは縄張り防衛によって自分たちの子育てに都合良い環境を維持する。アメーバだってよい餌場を見つければヌメリ汚れを作り出してその環境を維持しようとする。
とすると「自分の周辺環境を自身の生存に有利なように作り替えようとする欲求が潜在的に存在している」というのは人間に特有の欲求ではなく、収斂進化的に多種が持ちうる欲求なのかもしれないし、そもそも生命共通の欲求である可能性もある。
そして都合の良い周辺環境から物質を取り込み、個体・種、あるいはそれらを超えた生命全体の保有する質量を最大にしようとしているのではないか?
色々考えをねじってみると、そもそも生命は物質を獲得することを至上命題として存在しているのではないかとも捉えることが出来る。
生命最大の目的としてよく言われていることは「増える」であるが、そもそも生命体は自身に属する物質の量を増やしたがっているのであって、生殖による世代交代やそれに伴う進化、環境適応による生息域の拡大などの生命の様々な行動はその手段に過ぎないのではないかと感じる。
例えば絶滅は種にとって、死は個体にとって悲劇だが、生命にとっては悲劇でも何でもないただの損切りである可能性が高い。生命は互いに争っているように見えて、その実”生命”という性質を持つ存在が保有する物質の総量を増やすために、その存在の根っこの部分で共通するその目的達成に向けて協力させられているのかもしれない。
こうして僕らは今日も生命という強大な存在の掌の上で踊らされているのだ。
これは人間にとって死に意味が生まれる救いでもあるし、生の意味が薄れる呪いでもある。
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