渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

ネガティブを流す水洗トイレ

5月26日

 昨日はネガティブが爆発してつらつらと弱音をネットで言ってしまったなと思うと恥ずかしくなってくる。昨日の日記を一言で表せと言われたら、僕は「排泄」が最もしっくりくると思う。人間だれしも精神上のラバトリーをどこかしらに持っておくべきだ。

 昨日のあれは何だったんだと思いはするが、書かなければよかったとは思えない。自分の中に渦巻くものを吐露する必要があったのだ。

 ネガティブは受け入れるからこそ力になるが、時に吐き出さねば自分を保てぬ時もある。揚げ物の油も使用し続けると酸化していくように、自分を突き動かすネガティブも気が付かぬうちに劣化していくのである。酸化した油を廃油するように、ネガティブも時々入れ替えなくてはならない。たまたま昨日がその日だったのだ。

 

評論へのあこがれがあるんだろうな

 昨日、実家に立ち寄って高校時代に使用した教材の一つである”ちくま”の評論副読本を回収してきた。

 というのも、以前からこの日記上での文に既視感を感じるというか、書いているときに何かにつられているような感じがしていたのだが、おそらくは学校の国語の授業で読んだ評論に引っ張られているのだということに最近気が付いた。

 それを確かめるため、また単純に評論を読んでみたかったためこれを手元に置いておきたかったのである。

 

 これに気が付いた時には腑に落ちる音が幻聴として聞こえたほど納得した。なぜ僕が日記書くことを決めたのか、なぜVログやツイッターではなくてブログを選んだのか。その根っこがよくわかっていなかったのだが、おそらく僕は日記を通じて評論文のまねごとをしたかったのだ。

 それにしては整然としない文章を書いているが、それは能力の問題であり心構えの問題ではない。

 仮にしたいことをイメージするだけでそれができるようになるならば誰でもプロ野球選手になれてしまうはずだ。別にプロしか野球をしてはいけないというわけでもあるまい。野球が下手だからと言って野球をしてはいけないわけではないのだ。

 僕はただ評論文のような文を書きたいと思いながら日記を書いているに過ぎず、教科書に載りたいと思っているわけではないのである。要するに、自身の文章力と思考力が許す範囲で最も評論文に近い文を書こうとしているのだということが言いたい。

 例えば、多くの人は幼少期にごっこ遊びに興じたことがあるだろうと思うのだが、僕は日記を”評論文ごっこ”と捉えているのかもしれない。そうゆう娯楽の手段として最も手軽だったのがブログだったのである。

 

 ではなぜ評論文のような文を書こうとしているのかという疑問も湧いてくるわけだが、自分を見つめてみると理由と思われるものが浮かんできた。

 1つ、国語のテストで貴重な得点源だったから。

 僕はあまり国語が得意な方ではなかった。物語は出典との相性によって得点に大きなブレが生じるし、古典はまじでよくわからなった。ただ、評論については比較的安定して得点することが出来ていて、得点に繋がりやすいという意味で評論からはやさしさを感じていた。

 その影響で評論文に対してなんとなく親近感が湧いてくる。やはり人間は苦手を潰すよりも得意を伸ばす方がはるかに楽しい作業であると感じるものだ。往々にして、できない事よりもできる事を好きになりがちであるから、文章については物語よりも評論のほうを好きな形だと認識したのだろう。

 人は好感を持っている人の真似をしてしまうものらしいが、評論に親近感を持った僕は、気づかぬうちに評論文の真似をするようになってしまったのかもしれない。

 

 2つ、こちらが最も根源的な理由だと感じるのだが、他人に影響を与える行為に憧れたから。

 人間は山野を切り開き、川を囲い、自分たちの生存を脅かす外敵から防衛して自らの生存に有利な環境を作り出して生きる動物である。人間の生存に適するように改造された環境システム、人間が台頭する以前から存在するバイオームや大気・海洋圏に影響を与えうるレベルの物質循環システムである人間圏を発明し、この星における生命の霊長であるという自覚を手に入れた。

 要するに、人間には自分の周辺環境を自身の生存に有利なように作り替えようとする欲求が潜在的に存在しているのではないか?

 そして人間は物理的な武器によって物質世界を制圧する過程で、副次的に生まれてしまった情報や言葉という元素によって構成される精神世界を発見した。人間はその世界おも自分の支配圏へ取り込もうとして言葉を進化させ、これを活用して社会システムを作り上げた。

 人間は言葉によって他者へ影響を与えることが出来る。社会において言葉とは事実上究極かつ唯一の飛び道具であり、そして自分の言葉が他者に影響を与えることは社会環境上に自分自身のニッチを作り上げる行為に他ならないのではないか?

 決して褒められたものではないかもしれないが、人間の根源的な欲求として他者への影響力というものはどうしても魅力的に映ってしまうのであった。

 

 そうゆう単純な憧れがあったのだろう。

 多少読めてしまうからこそ、どうあがいても届きようがない文章力に憧れが募る。嫉妬するには自分の能力が足りていなかったが、少しでもそのような文章を書けるようになりたいと当時から無意識に感じていたのかもしれない。

 

※AIにタイトルをつけてもらったら「精神上のラバトリー」という候補が挙がった。既視感あるなと思ったら、これってコナン映画の副題っぽいなと言うことに気が付く。当て字は何にするべきか。「水洗便所」と書いて「ラバトリー」と読むのが順当だろうか? 「劇場版 名探偵コナン 精神上の水洗便所」ひょっとすると2035年ごろのコナンはこんな感じでやってるのかもしれない。

 

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