渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

今週のお題「夢」 

今週のお題「夢」

 

 せっかくお題があるならば、これに乗らない手はないだろう。お題を確認して、気乗りすればそれについて書いてみる日を週一で作ろう。

 今週は「夢」がお題らしい。箇条書きになるが、「夢」について思うことを吐き出してみようと思う。

 

・思えば僕は「夢」というものを小学校卒業以来語っていないような気がする。おそらく潜在的に「夢」に対して覚めているのだろう。「夢」に関して最初に僕の頭に浮かぶ言葉は「疑い」である。というか、自分の夢をまっすぐ信じられる人間など、きっとこの世で一握りだろう。

 正確に言えば、僕が疑いの目を向けているのは「夢」ではなく「叶う」という言葉に対するものかもしれない。「夢」は人間の心の中に湧き出す欲望の中で特に強いもの、もしくは人とは違うパーソナルな欲望の名称であると僕は感じていて、それは自分自身の存在意義を指し示す、思考や衝動にベクトルを与える心の羅針盤だ。

 つまり、夢を語るということは自分の中に存在する魂のようなものを他人に開示する行為のように感じられる。人間の心に限らず、芯というものは弱点と同義である。だからこそ夢などというものは本来、他人に対してひた隠しにして生きていくしかないと僕は思っている。

 

・僕自身が「夢」に対して潔癖である可能性がある。夢の実現純度、現実への反映度は100%がよいに決まっている。それを譲ることができないのだ、自分は。100%で叶えることができる夢は限られている。その現実を受け入れることができないから「夢を叶える」ということについて、懐疑心が自分に取り付いて離れないのかもしれない。

 その懐疑は夢を語ることに対して不安を作る。疑心暗鬼というやつだ。夢など到底世界から受け入れられるものではないと直感的に理解してしまっているような感覚。世界は自分の魂の存在場所ではないと暗に言われているような気分。つまり、自分自身の存在意義を否定される気分を味わうことになる。実際はどうかという問題を置き去りにして、頭がそう結論づけてしまっている。それほど自分の存在の不安定さに対する恐怖は大きい。世界が自分だけのものであるうちは自分の存在は否定しようがないから、僕の意識は自分の心の中に閉じこもり続けてしまう。

 

・夢を語ることのできる人間は強い。僕の目には彼らが、自分自身の特別な欲望に自信を持っている人に見える。いわゆる自己肯定感の高い人間たち。そういう人々が夢を叶えていく。自分自身が夢を叶えることのできる人間でないと思ってしまうからこそ、そのように思ってしまう。これはたぶん僕の嫉妬の表れだ。これらは偏見、もしくは差別に近い考えかもしれないが、人間は自分を守るために簡単に他者を見下げることができる。誰の心にもあるのではないか?どうしても抜け出すことのできない流砂のような領域が。底の見えない冷たい泥沼のような感情が。それを振り切ることがどんなに難しいことか、わかってもらえないだろうか?

 上の通りにひねくれている僕は夢を「叶える」という表現が好きではない。夢は「叶う」ものだからだ。言い換えるならば「夢」とは能動的に達成する目標ではない。あくまで受動的に享受ものなのだ。そう思ってしまう。

 「以上が自分が夢に向かって努力できないことに対する言い訳である。」そうくくっても全く問題ないではないか?そう思うとまた一つ自分のことを信じられなくなっていく。

 

・「夢が叶うということ」は善いことみたいな雰囲気を感じるが、僕にはそれがわからない。「それは夢という言葉の後付けではないか?」と思う。ある人間の欲望が開花した結果に対する周囲の納得度の表れというだけではないか?欲望の成果が祝福に値することであった場合、それを「夢」呼んで納得しているだけではないか?

 夢の強度もその内容も人によって異なるのは明らかだ。では、例えば明らかにその人の夢が法律に触れているものであれば、その夢は叶うべきものであるか?人の夢について僕らは干渉している。人の欲望を押さえつけながら、人の夢をつぶしながら私たちは生きている。

 じゃあそもそも善きものが「夢」なのであって、「夢」とは別に善きものではないではないか。反社会的な夢はあってはならないのか?たまたま社会と反発しない欲望しか抱くことができなかったからといって別種の欲望は抑圧してよいのか?

 そもそも人間の大多数はそのような歓迎されない欲望をもって生きているだろう。社会に生きる人間は自然状態であり得ない。それならば人間にとって夢ほど足を引っ張るものはないとは思えないか?

 欲望と夢の境目が僕には見えない。

 

 

 

 さんざん書いてしまった。おそらくこのお題の意は寝て見る方の夢だろうが、お題選択して下書きを表示したら

今週のお題「夢」

なんて出てきたもんだから、こんなことを書いてしまった。

 

 僕は寝て見る夢を全然見ない。多分寝つきがいいんだろう。

 

corvuscorax