渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

それでも僕は歩かねばならぬのか

5月20日

 ここ数日間、なんとなく気分の波が下振れを起こしている。

 普段なら一日の中で少し元気な時間があったりするのだが、今の自分は何をしていても事柄のマイナスな面が見えてきてしまって、何に対しても前向きになることが出来ない。

 そんな時でもファミレスに来てしまうほどに僕はファミレスが好きであることは判明したが、ファミレスに来たからと言って元気になるというわけでもなかった。なんなら「貯金も無い状態で外食するのは良くないだろ。」と、僕の中の天使か悪魔がささやいているような気がする。

 

天使と悪魔

 漫画等である人物が何かをすべきかすべきでないかという2択について逡巡している際に、よく頭の上で天使と悪魔がそれぞれアドバイスを与えてくるような描写がなされていることがある。

 天使はすべきこと、悪魔はすべきでないこと(というよりは自身の背徳的な欲望に代表されるような、一般的な善に反してでもこれを行いたい・行うべきと思う事柄)をそれぞれ行うよう主張してくるわけだが、確かにこうゆう場面に例えることが出来るような状況は日常生活に多く存在する。

 お年寄りに席を譲るべきか、税金は滞納せずに支払うべきか、売り上げのために性能を誇張した広告・営業をするべきか。

 程度は様々だが、多くの人の中にいわゆる天使と悪魔が共存していることは確かだ。

 

 天使と悪魔はどちらが先に生まれるのだろうか?

 天使がいるからこそ悪魔が定義されるのか、それとも悪魔のカウンターパートとして天使が生み出されているのか。

 人間の本性は天使か悪魔か。いわゆる性善説を信じるか、それとも性悪説を信じるかという問いである。

 僕は性悪説を信じたい。

 自分が今、生まれ持った善をすべて捨てて生きているなどと信じたくはない。僕は善を獲得することが出来ていないのだと考えた方が自分の心には優しい。

 しかし、もし今の自分を善人であると信じていたならば僕はきっと性善説を信用していただろう。「自分の善は努力によって獲得したものだ、他の堕落した人間とは違う」と信じたくなるだろうから。

 僕の心は清くないが、それでも生きていかなければならない。天使だけでなく悪魔も許容していかなければならない。

 

落ち込む原因を探る

 なぜ最近落ち込んでしまうのか。

 おそらくは経済的な現状に不安があるからなのだが、原因がわかったところでこれはどうにもできない。そう易々と安定した生活は手に入らないのである。

 そもそも、経済の本質はこうゆう部分なのだ。

 努力や能力の不足によってもたらされる欠乏感や劣等感、恐怖心、罪悪感、そういったものがあるからこそ働くことに価値が生まれる。

 もちろんより良い生活や待遇を求めるような欲望も経済にとって重要であることに変わりは無いのだろうが、それは経済に組み込まれて初めて生じる欲望なのではなかろうか。

 すると、やはり経済的に脆弱であることによってもたらされる絶望感を回避したいという欲望こそが人間を経済活動に組み込んでいく圧力になるのであると思う。

 実際僕が無職になり切れないのはこれが大きい。結局僕は恐怖心によって突き動かされているのである。背中に銃口の感触を感じながら、なんの意味があるかわからない仕事をして、経済という道を歩かされているのだ。

 親ガチャなんて言葉もあるが、そもそもどのような社会に生まれてくるかはガチャ以外の何物でもない。知らぬ間に日本国民になり、知らぬ間に保険を掛けられて、知らぬ間に法律の保護下に置かれている。これが自分にとって不利益だったというわけではないが、では僕がそれを選んだかと言えば決してそうではない。

 その生存上の利益を否定しきれないが、それでもそのシステムに同意なく組み込まれていることにはなんとなく腹が立ってしまう。

 ただ、これは言っても仕方のないことだ。

 それならば、そもそもなぜ質量によって重力が発生する世界に自分が産まれてしまったのかという事にも腹を立てることになる。

 在るものはある程度受け入れて生きていかねばならない。実際僕はおそらく社会制度が無ければ生きていけないのだから。社会に生かされている以上、社会には一定の貢献せねばならぬのである。その第一歩こそ、自分の生きる社会を許容して参加することなのだ。

 人間、あきらめが肝心である。

 

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