渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

自分からはどうあがいても逃げられない。

5月25日

※ちょっとこの日記は暗すぎる上に長すぎるので、同日に挙げた「地理院地図であそぼ」の方をぜひ読んでいただきたい。

※じゃあなぜこの日記を公開したのかと問われると返す言葉が無いのだが、せっかく書きながら思案したのだからできればなんかしらの成果が欲しかったのである。こんなに考えたのに非公開のままにしておくのは自分が可愛そうでしょ?

 

 近所の小学校では運動会が開催されているらしく、部屋の窓を開けるとキジバトの独特な鳴き声と朧げなヨーデル体操(?)がミックスされた平和の音が入り込んできた。

 「運動会前夜は結構楽しみだったが、いざ始まると実際楽しくなかったな。」なんてことを思い出す。

 

 今日は件の友人と昼にラーメンを食べようということで、休日であるにもかかわらず早起きをしてみたわけだが、別に盛んに言われているほど気持ちよくはなかった。

 早起きは三文の徳なんて言われているが特に目に見えて良い事は起きず、せいぜい少しだけ自己肯定感が高まるような気がしただけだ。三文なんて所詮こんなものなのである。

 とはいえせっかく慣れない早起きをしたのならば少しでも良い一日にしてやろうということで、朝食がてらスターバックスへ行ってみた。(もちろん持ち帰り、というかドライブスルーで)

 カフェモカについてはあらゆるコーヒーチェーンの中でスタバが一番好みということは以前の日記にも書いているが、最近は他のメニューも試し始めている。この前ソーセージロール(うろ覚え。パイ生地でソーセージを包んだホットドッグ的なやつ。以前岩手・久慈の琥珀博物館で食べたリトアニア風ホットドッグに似ている。)を注文して食べてみたところ結構おいしかったので他のフードも試してみようという気持ちが沸き上がり、今日はチョコチャンクスコーンを注文した。ゴロゴロと粒度の粗いチョコレートが混ぜ込んであるアメリカンスタイルのピザ切りスコーンで、慣れない早起きの影響で少し調子が悪い朝に食べるには苦労するくらいボリュームがある。

 さらにカフェモカも注文してしまったため、糖分の摂取量が完全に天元突破してしまった。痛む頭が過度な甘みの影響でさらに痛みが増してきた。

 こうゆうことしてるから僕の健康状態はいつまで経っても良くならない。

 

 友人宅とは車で2時間半ほどの距離がある。今日は互いの中間点である地元近くのインターチェンジ付近に集合しようということで10時半ごろ家を出た。(そして道中、上記の通りスタバに立ち寄った。)

 道路がやけに混雑しているなと思ったところで、そもそも土日の昼間に外へ出ること自体久しぶりであることに気が付く。

 基本的に人の多いところに行くことが苦手な僕は、世間が休日の日に外出することはほぼないのだ。

 

 なぜ人の集合が苦手になってしまったのかと考えてみたが、いろいろと原因になりうる体験が浮かんでくる。

 例えば小学校の遠足が例として挙がる。遠足は100人近い人間が動き、歩道や電車を特定のコミュニティに属する人間の集団が事実上占有してしまう。それによって周囲の人々に気を使わせていることを感じるのが嫌だった。

 僕は遠足によって、所属という行為の暴力性を強く意識してしまった。集団に属し、”集団である”という理由で人にインパクトを与えてしまうことを当時の僕は嫌ったのだろう。

 所属の暴力についてもっもとよく見かける例として、行列への割り込みがあげられる。個人レベルで見れば明らかに割り込み行為となるにもかかわらず、グループであれば後から構成員が行列に合流してもなんとなく許されるのは一体何故かと考えれば、それはやはり人間は集団を恐れるからと考えるのが最も妥当に思える。

 通常の満員電車と、同質的集団が占有している電車とでは明らかに気の使い方は異なるように見えて、そんな集団に属する自分を意識するとなんとなく加害者意識が働いて罪悪感が刺激されてしまう。対面して話し合っている二人の人間の間をわざわざ通り抜けるような、そんな罪悪感だ。

 よく言えば絆とか連帯感のようなものなのかもしれないが、その暴力を自分が持つことに快感を感じるには周囲の眼が気になりすぎていた。

 

 例えば、親からの教え。不良グループに属するような人間とは遊ばない方が良いと言われていたのだが、逆にどのような人間と遊ぶべきなのかは示されなかった。

 別に自分の親が毒親だったとかそういう話では無い。逆に「○○君と遊びなさい。」と遊ぶべき人間を指定する方がよっぽど問題があるだろう。人間関係に関する嗅覚をはぐくむためには善きサポートと言えるのかもしれないし、別に強制力を持って僕の人間関係に介入してきたわけではなかった。

 しかし、僕には不良的な友達がそれなりにいた。そのような言い付けがあると意識したうえで彼らと関わる事は、当時の僕としては結構つらかった。

 彼らのことは嫌いではないのに、親の言葉が脳裏をよぎる。その言葉を否定しきれない僕の心は、彼らを自分から引き離そうとする。友達なのに、楽しいのに、ここから離れなければいけない義務感がある。

 逆もまたつらかった。優等生的な子たちと遊んでいるときも楽しかったが、これは言い付けを守ったという達成感ではないのか? 本当に僕は自分で彼らを友人として選んだのだろうか?

 中学生にはありがちな葛藤であるが、僕は最後までそこから抜け出すことが出来なかった。

 

 そもそも僕は自分本位な人間だから、周囲の意思によって自分の行動が制限されることが嫌いだ。そのくせ自己主張が苦手なものだから、集団行動の意思決定に自分が参加することが出来なかった。(これについては「鶏が先か?」という問題であると信じたい。もしその意思決定に参加することが出来ていればひょっとしたら集団行動を好きになっていたのかもしれない。自分本位な性格は集団に属せなかった反動だと思えば多少は救われるが、結果がこれではどちらにせよ目は当てられない。)

 自分の意思が一切反映されないまま、なぜか自分を巻き込んで集団は進んでいく。それは僕の意思ではないのに周囲から見れば確かに僕の意思を含んでいるように見えるわけで、これがとても気持ちが悪かった。自分じゃないものが自分であるかのようにふるまう様を見ていられないのだ。

 

 結局それらがねじれあった結果、人と関わる事そのものから逃げるようになってしまったのである。

 それなりに年を重ねた今、これがあらゆる問題の根源となって襲い掛かってきている。仕事も友人関係も、家族についても。

 僕が人間関係から逃げ続けている限り解決しない問題が日々押し寄せる。

 

 おそらくこれからの僕はますます嫌な人間になっていく。

 自分は良くない人間だと思っていても、その自覚だけでは何も変わらない。そりゃ自分の精神世界には少なからぬ影響があるが、その影響力は到底物質世界に届き得るものではない。

 じゃあ何か行動するかと言われたら、決してそんなことない。むしろ嫌な人間になっているという自覚は、さらに自分を嫌な人間へと変えていく。

 正しくあることが出来ない自分に諦めがついてしまうと、そこから脱出することに意味を感じなくなる。

 人間は忘れる生き物だ。自分が信じた正義に向かって努力していた事も、決心という言葉で自分を縛った事も、一度破れてしまえばもう戻れない。失ったものの感触を感じることはつらいから、それを見ないように頑張って忘れようとしてしまう。

 そして自分の無意識がそれを意識的にに視界の外へ追いやった時、忘れた自覚が生まれた時、人は慣れる。慣れとは、無意識が行う意識的な忘却の結果だと僕は感じる。

 良くも悪くも人間は慣れる。例えば支払いの滞納も、本当にきつく感じるのは最初の一度だけだ。あの時感じた罪悪感はとてつもなく大きなものだったが、2回目はもう何も感じない。

 本当にダメなことだとわかっていても、僕の頭はその罪悪感を忘れて自分を守ろうと必死だ。おそらく、僕の頭は巨大な罪悪感を感じた時の努力の方法をそのように学習してしまっている。

 

 自分で納得できない生き方をしていると、現状に納得するために努力のキャパシティがとられてしまって、本来行うべき努力を怠らざるをえなくなる。こうなると、実感としては頑張っているのにもう正しくなることはできない。それを思うと、ますます正しくある事に意味を見出すことから目を背けることに傾倒するようになる。耐えがたい現実から目を背けるようになる。

 自分が自分についた嘘は、時間が経つにつれて本当になっていく。自分の中で新たに生まれた正しさを信じるようになって、本来自分がどう生きたかったのかを見失っていく。

 たまにその嘘から目覚めそうになると、正しげなことをして少しだけ満足感を得る。根本は逃げたままであるにもかかわらず、「いつでも正しくなることが出来る」と錯覚することで更なる深みへ逃げていく。

 では、深みへ逃げる自分を見ているのはいったい何者なのか? そういって自分が分からなくなったふりをして生き方を改めることから逃げ続けている。

 なぜうまく生きていけないのかと考えても無駄だ。人間はなるようにしかならない。そう信じることが出来てしまっている自分に改心の道は残されていない。人間はいつでもやり直せるなんて聞こえの言い言葉を傷薬にして、自分をごまかしながら生きる。そんなはずはないと、仮にそうだったとしてそれが早いに越したことはないと思いながらも、それで傷を癒す快感から離れられずにいる。

 僕は僕から逃げられない。いつまでたっても自分から抜け出すことが出来ない。努力不足と言われてしまえばそれまでだが、僕だって自分なりに足掻いてはいるのだ。すると今度は「自分なり」なんて言っている時点で甘えすぎだという声も聞こえてくる。

 自分を甘やかす自分の中に、自分を叱責する自分もいる。泥沼から手をのばして僕の足を掴んで離さないくせに、泥沼へ進んで入ろうとすると押し返してくる。

 酔っぱらいたくなるし、煙草も吸いたくなるし、妖怪のせいにしたくもなる。

 ここまでの段階でAIにて記事タイトルを付けたら「自分との闘い」とか「泥沼からの脱出」とか色々提案してもらえたが、決してそんな前向きな気持ちでこの記事は書いていない。こう思ったから何かしようとかそうゆうのじゃない。ただ「自分はこうであり、それから逃げられない」と感じただけだ。

 

 何をやっているんだろうな。ネットに公開する記事にこんなネガティブなことをさんざんまき散らして、懺悔でもしてるつもりかっての。そんな大層な人間じゃないよ、お前は。夜中に酔っ払いが吐いた道端のゲロはカラスの朝ご飯になるが、知らん人間がただネガティブを発露しただけの文の価値はそれ以下だ。

 本当はもっと意味のあることがしたい。ただ指を滑らせてわけのわからないことを書くだけならいっそのこと何もしない方が幾分かましだ。

 誰でもネガティブにはなれる。本当に難しいのは、ネガティブに支配された状況でポジティブを前面に押し出すことだ。悪い状況をただ「悪い」というだけの人間になんの面白みがあるというのか? 暑い日にただ「暑い暑い」言って不機嫌になるだけの人間を誰が好きになれるのか?

 どう考えても「暑いからクーラーを開発しました。」という人間の方があらゆる面で面白いし好きになれるだろう。

 「じゃあどうするの?」と聞かれてもすぐに答えは出ないが、一応表面上の僕はこの性格を何とかしたいと願っている。ただ、願っているだけでは何の解決にも……

 もううるさい。頭に浮かんだ言葉に対し、常にセットでそれを否定する言葉が湧いて出てくる。何をしようと思っても、他ならぬ自分がそれにブレーキをかける。

 昔から自分はこうだっただろうか?

 少なくとも大学ぐらいまではもっとポジティブな人間だったと思うのだけれども。おそらく、大学までの僕は世界を舐めていたんだな。「なんとなくなんでもできるんじゃないか? なんとなく自分はすごいのではないか?」いわゆる根拠のない自信に取り囲まれて生きていたのだろう。

 今となっては周囲の人々から取り残されてすっかり自信を失ったにもかかわらず、その源泉であった自己愛だけが肥大して自分を甘やかす努力回路が脳内に形成されてしまっているように思える。

 自分を掴んで離さない”自分”の正体は自己愛なのだろうか? ならば自己愛を捨てれば僕は前に進めるのか?

 僕は自己肯定感が高すぎるのかもしれない。もっと自分を雑に扱うようにすれば、少なくとも現在のただ時間を垂れ流すだけの存在よりは随分ましになるかもしれない。

 こう思うと、自己肯定感と自信は全くの別物なのだなとつくづく感じる。(少なくとも他人を納得させるに足る)自信には根拠が必要だが、自己肯定感に根拠は不要だ。ただ、自分をかわいがるだけでよい。

 座っていてお尻が熱くなっちゃったら少し腰を浮かせてやればいいし、持久走で辛くなっちゃったら歩けばいい。

 僕はこれをやりすぎて、自分だけを可愛がるモンスターになってしまったのだろうか? 一種のナルシストだな。自分のことを可愛いと思っているから自分のことが可愛く見えているだけだと言ってやった方がいい。このままでは本当に人格が崩壊して後戻りできなくなる。

 僕はいったいいつまで自分を甘やかし続けるのだろう? 甘えを取り除く算段は全くと言っていいほどたっていない。果たしてどこまで逃げられるのかについては少し興味があるが、いつか来るその限界の景色はどれほど凄惨を極めるのかと想像すると怖い。

 こんなに色々言っていても、また他人から何かを言われても、まだまだ僕は自分のことを甘やかすことが出来てしまう自信がある。こんな自信は捨ててしまいたいが、そういうわけにもいかない。意識的に捨てることが出来る自信はもはや自信とは呼べないのだから。

 

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