渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

ガストで思いを巡らせろ

6月2日

 夜中から雨が降りしきる今日「さぁ雨漏りするか?」と出窓前で構えていたのだが、結局今日は雨漏りしなかった。なんなんだよ。

 とりあえずガストに来てみた。鬼滅の刃コラボをやっているらしく、店内のBGMも鬼滅の刃関係の音楽だ。「これ夢庵でもやっているのだろうか?」と思って調べたらガスト・バーミヤン・ジョナサンだけらしい。個人的には夢庵の方がイメージが近いような気がしたのだが。

 まあ色が近いからコラボすべきというわけでもあるまい。むしろかけ離れている者同士でコラボすることこそが令和の新常識なのかもしれないな。

 本当は今日、5月の日記を読み返して振り返りをしようと思っていたのだが、なかなか時間と気力・体力を消費して行わねばならないことに気が付いて怖気づいてしまった。現在5記事ほどを読み返して手元にメモを残しているが先は長い。

 今日中に終われば明日の日記でまとめて記録する。このままだらだら引き延ばしてしまっても「あれ?もう7月じゃん。じゃあ5月のまとめは無しで。」というのが落ちだ。見え見え過ぎて面白くない。明後日には途中であっても記録してしまおうと思う。

 

 最近気が付いたのだが、僕はアウトプットしたい時期とインプットしたい時期が明確に分かれている。

 本を読みたい、ゲームをしたい、散歩をしたいという時期が来ると何かを書こうとすることに割と大きな心理的障壁が出現するし、逆に何かをとにかく書きたいという時期になると本とかゲームとかを身の回りから排除してしまう。

 要するにもともと自覚していたように「ムラっけがある」ということなのだが、本や日記についてもしっかり適用されているのだということを改めて確認することが出来たのである。

 最近は更新頻度が落ちていることからもわかるようにインプットの波が来ているようだ。スイッチ版の大神を買ったり、ブックオフで本買ったりしてそれらを摂取している。

 ただ、こうゆう時に無理やりアウトプットしてこそ力になるというものだ。目的として「文章力の筋トレ」を掲げている以上、むしろこうゆう時ほど日記は書かねばならぬのである。

(「インプット・アウトプット」というとなんかしっかりした印象というか、ちょっと知的な印象を受けるが、あまりしっくり来ていない。むしろ個人的な実感に近いのは「摂取・排泄」である。ただ日記上で「排泄」という言葉を使いすぎてしまうと少しお下品な印象を与えてしまうのではないかと思い、ここでは「インプット・アウトプット」を使っている。)

(なぜ「摂取・排泄」の方がしっくりくるのかを考えた。まず摂取とインプットの違いは何かといえば、やはり飲み込むか書き込むかというイメージの違いだ。インプットはやはり機械的な印象で、例えば毒を飲めと言われた場合、摂取はできないがインプットはできてしまう気がする。次に排泄とアウトプットの違いは何かと考えたが、意識的か無意識的かという違いに目が行く。アウトプットは何かを出す事それ自体を自分が決定できるような印象、要するに排出するか否かを決定するスイッチを操作できるという意味で機械的という感じがあるのだが、排泄は内から湧き出てくる欲求の印象が強い。排泄をコントロールすることには限界があるが、アウトプットをコントロールすることは容易だ。では何かを読んだり、日記を書いたりすることは僕にとってどっちなのかと考えたら、やはり摂取と排泄のイメージがしっくりくるのである。僕にとって読み書きは欲望の一種なのだ。意識的に行う「インプット・アウトプット」ではなく、行われてしまう「摂取・排泄」のほうが僕の日記に対する向き合い方のスタンスに近いのである。)

 

 そういえば最近は日記について色々カスタマイズすることが億劫になってしまって、見出しは設定していないし、タグも特につけていなかったり、グループを張り付けることをやめたりしている。

 何かをすることが億劫になる条件は何かと考えたのだが、それは要するに面倒くさいということで、行ったとしても効果が無く・薄く感じる事だったり、そもそもやりたくない事だったりするわけである。

 時間的・体力的に厳しいことをするという条件も思いついたが、例えばお腹いっぱいになっても食べたいものはまだ食べることが出来たり、5分の休憩で煙草を吸ったりすることを考えると、個人的にそれはやりたいことへ向かう行動力の制約にはなりえないなと感じた。

 やりたいことは何を置いてもする。煙草のために昼食を抜いたり、ゲームのために睡眠時間を削ったり、割と多くの人がそうしているのではないか? それをすること何かが犠牲になってはいるが、それによって満たされる何かがある。億劫であるというのは、そのようにして満たされる何かに対して期待を持つことが出来ない状態なのではないか。

 

 ということは、日記を細かく設定する事に関して僕は何かを期待していないということで、これはそれなりにしっくりくる。グループを張ってもタグをつけても、僕としてはそんなに面白くなかったのだろう。

 グループにしてもタグにしても、もしくはタイトルにしても、それらは自分の書いた文章にラベルを付ける行為であって、ネット上の読み手や後から見た自分がそれらを短時間で理解することを助けるものだ。自分に「自分」以外のラベルを付ける行為と言い換えてもいい。

 しかし、他ならぬ僕自身が何者であるかわかっていない自分を、他人に対してはわかりやすく表示することがなんとなく嫌だ。「僕は僕に所属しろ。」そう言いたいのである。

 単純に何かをまとめるという行為が苦手というのも大きい。僕の中ではいろいろなことがバラバラで、何一つおおきな塊になっていないということを感じる時がある。個々の記憶はそこにあると認識できているにもかかわらず、それらを総合して俯瞰することが出来ていないのだ。

 そもそも自分に向けてラベルを作る事、自分を理解するために自分を言葉にすることを怠っているため、まとまっていない自分のことを自分で理解することが出来ていないのである。自分の中に代表を持つこと。自分をひとまとめにした、なんとなくの自分像を作っておくことは大事なんだろうな。

 今からそれを作ることが出来るかは未知数だが、試してみる意味はあるのではないか。そのためにどうすべきかは目下検討中である。

 

 ここまで書いてAIにタイトルをつけてもらったのだが、いかにも興味惹かれそうなタイトルを示してくるではないか。

 例えば、「自己理解の重要性:人はなぜ自分を言葉にすべきなのか」なんてのが候補に挙がったが、仮にこれを見てこの日記にたどり着いた人間にこの内容の文章を読ませるのは詐欺に近い。仕事じゃないのにスーツで出かけますか?

 確かに嘘ではないのかもしれないが、僕が想定する適当さ加減とかけ離れてしまっていて、これをタイトルに着けようとしたらくすぐったくなってしまう。

 逆に「このようなタイトルをつけても少しは納得できるような文章を書け」と言われているようでもあって、ちょっとした焦りも生じる。これは勿論AIから言われているのではなくて、自分の内心がそう語りかけてくるのだ。内心に無いことが意識に上るはずはないのである。

 「自分はもっとちゃんとした文章を書きたいんだろうなぁ」と思いながら進む筆は、思った通りには動かず、今日もこの駄文生成NIはスケートで氷を滑るように紙面を汚していくのであった。

(Natural Intelligence=NI⇔AI:もしやと思って検索してみたら、実際に人工知能に対する自然知能はnatural intelligenceというらしいので採用。)

 

corvuscorax