渡るカラス:壁打ち虚無日記

現代には珍しい?ネット初心者。忘れっぽい自分こそ、日記を書くべきであると思うので始めました。読んでもらったとしてもただ時間が潰れるだけのブログだと思われます。勘弁してください。

渡るカラスなどとのたまっていますが、どちらかというと引きこもっているタイプです。 忘れっぽいというのは本当で、日々消えていく自分自身を現世につなぎ留めておくために日記書いてます。時の流れは恐ろしいもので、気が付いた時には自分の意識だけが時の流れに取り残されていく。いつまでも自分の頭の中に現在の自分を住まわせて置き続けられるほど優秀な脳みそではないので外部に自分を移植しておくことにしました。 ただ日記書くだけでは確実に三日坊主になるので、少しでも他人の目を感じられるネット上で日記を書き始めました。 私はネットも文章も初心者なので、読者が得るものは何もないとは思いますが、パノプティコンの監視員としてご協力願います。(どちらかというとシノプティコンでしょうか?) 

5月の日記を見返してみたよ。

6月3日

 ここ最近の日記で書いている通り、今日は5月に投稿された自分の日記を見返して、ちょっとしたコメントをつけていこうと思う。

 これがなかなか大儀で、そもそも自分が書いたものを見返すことは結構恥ずかしい上に、結構文量がある。一日あたりおおよそ1000~1500、多い日には4000に届く文字数の、文法が崩れた読みずらい文章を読み続けなければならない。それを合計20日分。文字数にして2万文字強といったところだろうか。

 そう言われると大した文量ではないように思えてきたが、それは舗装された道路を走るようにすらすら読むことが出来る「出版物」を想定した場合の話だ。同様に僕の文を道路に例えればそれらは明らかにオフロードであり、進むだけで一苦労なのである。

 

5月の振り返り

・1日

 その日は雨で、家を出るまでしばらくの間「行きたくないなぁー」と思いながらネバネバと玄関に張り付いていた。

 しかもこの数日前には職場に傘を忘れてきており、その上傘を1本しか持っていない僕は大いに困っていた。一応合羽(ポンチョ)を持っていたのでそれを着て出ることにしたのだが、ポンチョの下は蒸れるため半袖に着替えてからそれを羽織ったようである。

 その日は気温が低く半袖では肌寒く感じるほどで、道行く人々は目に付く限り全員が長袖を着用していた。夕方の休憩でコンビニへ行こうとしたときには雨は弱まり、傘無しでも外へ出られそうだった。しかし「こんな気温の日に半袖で外に出ると浮いてしまうかな」なんて身の丈に合わない共感を抱いた結果、恥ずかしくなって買い物へ出かけることが出来ず、腹ペコで夜の業務をこなすことになってしまった。

 もっとクリティカルな羞恥心が欲しかったなぁ。こうゆう自意識はいらないのですよ。

 帰りも合羽をきて帰った。このころにはすっかり傘のことを忘れていて、またしても職場に傘を忘れてきた。外へ出るときに雨を見て気が付かなかったのかという意見もあるが、合羽を着るのに四苦八苦した結果「早く帰る」という命令が頭を占めてしまっていた可能性がある。

 

・2~6日

 GW中は時間を作れなかったので日記を書かなかった。

 今から思い返してみても特に特筆すべき出来事は起きなかったように思うが、何かしらの出来事に包まれてはいたはずだ。

 僕がGWを享受できた年は、学校以外では1度しかない。まぁ個人的には他の人とは休みが被っていない方がうれしいので特に不満は無い。

 

・7日

 この日の前日(6日)に高校時代の友達(件の友人ではなく部活繋がり)3人で大宮駅へ飲みに出かけた。大宮駅前はやたらと串焼きの店が多くて店選びに難儀したが、楽しめたので良しとした。

 飲食に限らずだが、カテゴリが同じものの中から店を選ぶのは難しい。中華・イタリアン・和食と別れていれば気分で選ぶことが出来るが、すべて串焼きとなってしまうと店選びの段階でどうしても値段や質、メニューの豊富さへ目を向けざるをえなくなる。より良い店を探したいという欲がある人間は良いが、なんとなくで店を決めてそれなりに楽しめればよい人間にとってこれは結構つらい。

 この夜、「みんはや」をダウンロードした。僕は今でもよくプレイしているが、僕以外の彼らは5月7日以来ログインしていないようだ。悲しい。

 

・8日

 深夜に車でマクドナルドへ行って、その帰り道に職質された。一瞬交通違反で捕まったのかとビビったが、職質だと聞いて安堵した。

 僕はよく職質される。おそらく過度に怪しく無さをアピールしすぎて逆に怪しまれてしまうのだろう。

 背筋を伸ばせと言われたからといって、わざとらしくそう見せることはしなくてもよいのだ。それは逆に他人のことを馬鹿にしているかのように映るものなのである。

 警察が後ろにいても、いつも通りの安全運転を心がけるだけでよいのである。

 

・9日

 ごちゃごちゃと色々殴り書きしている日。

 時間についてだったり、他人とのコミュニケーションのあり方だったりについて持論を述べているが、読み返してみるとそんなに大したことは書いてない。

 ただ「コミュニケーションにおいて、自分の考えや思いをすべて他人に伝えようとすることは正解じゃない」というのはうなずける。おそらく僕の中では通説と呼べるものなのだろう。

 

・10日

 ミュージシャンのライブを楽しむことが出来ないという事を書いている。

 これについては昔からそう。周りが楽しそうだから自分も楽しくなるという経験が僕にはない。

 楽しくないのに楽しまなければならないという圧力に中てられてしまうのが嫌なのだろう。小中の運動会・体育祭とかそうゆう時にもこの圧力を感じてたなぁ。当時「熱くなるべき時に熱くなれるというのは一種の才能だ」と感じたことをよく覚えている。

 

・11日

 お題「ラジオ」を回収した日。

 僕は基本的に車以外でラジオを聞かないわけだが、僕の車に備わっているFM受信機は90MHzまでしか受信することが出来ない。ゆくゆくAM放送が終了したときに、例えば文化放送などは車で聞くことが出来なくなってしまうということである。(文化放送は91.6MHz)

 別にradikoがあるから構わないのだが、「電波を受信する」という楽しみは無くなってしまうのだろうなぁ。たまにノイズが入り込む感じも少し好きだったのだが、まあ仕方あるまい。

 

・12日

 現在のファミレスにおいて、店員と顔を合わせずに入店から退店まで済んでしまうという事に気が付いた。そこから考えを跳ね上げて「セルフサービスの行先は食い逃げを取り締まるためのパノプティコンの様相を示すのではないか」と語っている。

 よくよく見つめなおしてみると、現在の飲食店は客と従業員の匿名性のバランスが崩壊しつつあるのではないかという視点が産まれてくる。

 従来の有人サービスでは客と店員は相互に監視しあう関係性だった。

 店員は店内を見渡せる立場にあり、入店案内・オーダー・配膳・下膳・会計を通して各客に緩やかな視線を送る。客はそのサービスをみて、自分がどのように監視されているのかを緩やかに知ることが出来ていた。

 店員は客の行動を見張る事ができるし、客は店員が”どのように客を監視しているのか”を監視することができる。双方にとって透明性が保たれた監視体制が築かれていたのである。

 だとすれば、ゆくゆく飲食業の無人化が進んだ時には”客が監視される立場であること”が強調されるのではないか。店は客を監視し続けるが、客はその監視の方法を知ることが出来なくなるのだから。

 

・13日

 「第一印象やTPOが大事なことはわかっていますよ」という言い訳がつづられている。

 しかし、これらについては本当にピンと来ていないのである。知らないことを知っていることはできないし、わからないものを警戒することは難しい。

 僕にとっては透明人間からいきなり殴られたかのように、訳も分からぬまま自分の世間知らずは露呈するのである。その瞬間は僕だって「うわやっちまった」と思うのだ。

 ルールを伝えずにルールで他人を縛ろうという心意気は常識の悪いところだよな。

 

・14日

 土産理論という謎説を提唱している。

 そういえばこの日に31アイスのキャンペーンについて言及しているのだが、どうやら15日までで中止になってしまったらしい。確かに店員さん大変そうだったからな。

 ちなみにこの日、僕は「チョコチップ」と「チップドチョコ」を注文して食べ比べてみた。この二つの名前は非常に似通っているが、一方はクリーム+チョコチップ、一方はチョコ+チョコチップといった感じで、見た目も味も結構違う。どちらのアイスだったかは明確ではないのだが、パリパリとしたチョコが入っていておいしかった。

 

・15日

 アイコンタクトとか「いつもの」みたいな指示は解釈に体力がいるからやめてほしいということを書いている。

 コミュニケーションに100%は無いというのは勿論として、言葉すら省略されてしまうとただでさえ伝達可能性の低い自身の考えの伝達度を下げることになるぞと言うことを言いたかったのだろう。

 とは言っても人間は楽したいものだから、僕だって言葉なしで人に自分の解釈を押し付けてしまう事も多い。この日の日記は戒めとして読み返すべきだと感じた。ただ、それが伝わらなかったからといって怒るのは違う。コミュニケーションを怠ったのは自分であるということを深く自覚すべきなのである。

 

・17日

 シャワーが壊れた。と言っても壊れたのはシャワーヘッドだけで、先日新しいヘッドに交換してからは快調である。

 交換しなくても使えはしたので引っ越しまで耐えようと思っていたのだが、ヘッドが根元からぽっきり折れてただのホースと化してしまったのでやむなく交換した次第である。

 珍しくスマホで全文書き込んでいる。

 

・18日

 17日の日記を読んでお冠である。

 確かに今読んでもいまいちな感じがするが、他の日も大概であるように見える。そもそもの文章力の無さに「スマホで書いたから」という理由をこじつけて安心したかったのだろうか。

 まあでも、スマートフォンの画面の小ささとか操作の単調さとかは普通にマイナスポイントだよなとは思っている。

 

・20日

 この辺からネガティブの波が来ているようで、何やらごちゃごちゃ言っている。

 勝手に国籍が備わっている事にむかついているようだ。

 

・22日

 資格取得そのものの意味は極めて限定的だよという話。法律上それをするために必要だから取得するだけで、本来それ自体に価値は無いのである。

 ただ、娯楽として勉強をしたいという欲求を叶えるにはおあつらえ向きだよね。今年も色々受験する予定がある。勉強しないといけないな。

 

・23日

 金曜だと思って朝起きたら、その日は木曜だったらしい。

 

・25日

 2記事上げている。一方はネガティブ三昧、一方は地理院地図で遊んだことの報告である。

 地理院地図の方はもともと下書きとして保存してあったもので、国立の道路と地形を眺めてにやけている。

 

・26日

 評論に憧れがある事を述べている。

 確かに、僕は小学校の時から必要以上に硬さを求めて文を書いていたように思う。本来そこに表現すべき深い洞察や思考を無視して文の形だけ真似て「すごいひと」に擬態しようと今でも必死こいている。

 考えたことを表現する手段として文を使うというスタンスで文を書きたいなと思っているが、書きながら書くことを考える癖は抜けない。僕の文が読みづらいものになってしまう原因はここにあるのだろう。

 

・27日

 5月のまとめをしようと決心した日。

 ただ今日これを書いていて思ったのだが、記録を活用すべく5月の日記を見返そうという意識でこれを決意したわけだが、結局過去記事を読み返して箇条書きにまとめただけである。これが僕が夢想していた記録の活用なのかと考えるが、こうじゃないよなと思えてくる。

 まあ、5月の出来事を見返して「ああこんなことあったな」と思うだけでも別にいいのかもしれないが。

 しかし、思ったよりも過去の思考の続きを行うことが出来なくて困った。もちろん読んでもそれを思い返すことが出来ないような文を書いているのが悪いのだが、それにしても、もっと色々コメントすることは出てくるのではないかと思っていた。

 読み返してみると、その日の日記の概要を説明したうえで一言付けるくらいが関の山で、在りし日に考えていた事柄について思考が深まったと言えるようなことは特に書くことが出来ていない。

 というか最初にも書いたことだが、過去記事を読み返すだけでも結構疲れる。それに加えて20ある日記それぞれに対して「更に考えを巡らせよう」なんてやっていたらそんなの1週間はかかって然るべき作業だろう。

 振り返りをするにしても、もっと抜粋するべきだったのかもしれない。要検討である。

 

・31日

 宇宙について考えると怖くなってしまうよね。

 考えても仕方ないし、わかってもどうしようも無いことに頭を割くことはあまり効果的なこととは言えないということがよくわかった。

 

まとめ

 想像したよりも長いものになってしまったが「僕の5月は5000文字に収まる程度のものだったのだな」と思うと、時間による希釈は恐ろしいなと思ったりする。

 

 27日の項にも書いたが、その月に書いた日記すべてに対して振り返りをする必要はないのではないかと感じた。そもそも、その日の気分でただ指を滑らせて書き綴っている物が大半なのだから、考えを深めようにもその下地が無い記事が多数あるのである。

 今月も1か月分の日記を読み返してまとめるような日を作ろうとは思っているが、今回のようにただただ文字数だけがいたずらに伸びてしまう記事を書くのはよろしくない。このように網羅的な感想文は書いてて疲れるし、読んでいても疲れるだろう。

 もっと良いまとめ方があるのは確かだ。今月末のまとめは、今日のものとは異なる方法を試すことにしよう。

 

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